〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part T-Z』 〜 〜
国 際 人 と な っ た ぶん たけ 生 ま れ の 攘 夷 家

2012/10/31 (水) 大 津 事 件 が き っ か け と な り

明治時代の海軍は極めて健全で、えり抜きの人材を先進の諸外国に留学させ、 「追いつけ追い越せ」 を文字通り実践していた。日清戦争 (1894〜95) によって留学制度は中断したが、明治三十年 (1897) に復活した。留学先は先ず世界一の海軍国イギリスであった。二番目は、そのイギリスと百年間会場の覇権を争ってきた世界第二位の海軍国フランスであった。三番目の国は、ここ二十年来急速に海軍国として台頭してき、フランスに代わってイギリスへの挑戦国に躍り出ようとしているドイツだった。四番目は開国以来、日本海軍の成長に力を貸してくれた新興海軍国アメリカであった。最後が、日清戦争後の三国干渉を主導し日本の仮想敵国となったロシアであった。イギリスには明治二十二年 (1889) 卒業で席次首席の財部たからべ たけし 大尉であった。廣瀬武夫とは同期で親友であった。フランスには明治十七年 (1884) 卒業で席次二位の村上格一大尉であった。ドイツには明治十九年 (1886) 卒業で席次三位の林三子雄みねお であった。アメリカには明治二十三年 (1890) 卒業で席次首席の秋山真之さねゆき 大尉であった。秋山は廣瀬武夫の後輩であるが親しく、短期間だが同居生活をしたこともある。最後のロシア留学生が、席次六十四位の廣瀬武夫だった。軍においては卒業時の席次が永久についてまわる。最下位に近い卒業席次の廣瀬武夫に陽の当る機会が与えられるはずがなかった。にもかかわらず、彼がロシア留学生に選ばれたのは何故か。それは誰に命ぜられたのでも誰に勧められたでもないのに、習得の極めて困難なロシア語を自発的に勉強していたからであった。
廣瀬武夫がロシア語の勉強を始めたのは大津事件がきっかけであった。大津事件とは、明治二十四年 (1891) 五月十一日、日本訪問中のロシア皇帝の皇太子ニコライ (後のニコレイ二世) が琵琶湖遊覧に訪れた際、滋賀県大津市で警備に当っていた巡査・津田三蔵に突然斬りかかられた暗殺未遂事件である。日本中は空前にして多分絶後のパニックに陥った。事件を口実に宣戦布告され日本は滅ぼされると、多くの国民は恐怖におのの いた。 「露国御官吏様」 と題した嘆願の書置きを残して、京都府庁前で国難を救おうと剃刀かみそり咽喉のど と腹を深く切って自殺をした畠山勇子という女性まで現れた。
大津事件をきっかけに 「攘夷家」 といわれる程外国嫌いだった廣瀬武夫がロシア語の勉強を決意した。積極的に、近い将来、ロシアが日本の仮想敵国になると思ったのである。 『孫子』 の 「彼を知りおのれ を知れば、百戦してあやう からず」 を実践しようと思ったのである廣瀬武夫はロシア語の師を求めた。矢代やしろ 六郎ろくろう (1860〜1930) という素晴らしい先輩がいた。八代は大尉の時明治二十三年 (1890) 七月から明治二十六年 (1893) 四月まで三年近くウラジオストックに出張してロシア語の学習と軍事情報の収集にあたった。後には海軍大臣になった人物である。八代六郎は海軍兵学校時代の廣瀬武夫の教官であり、且つまた柔道仲間でもあった。八代は明治二十八年 (1895) 十二月から三年間ロシア公使館附武官を務めるが、そこに留学してきた廣瀬武夫を公私にわたって指導することになるのである。

著:辻野 功
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