廣瀬一家が郷里竹田に帰って来たのは、重武が熊本県始審裁判所天草支庁長を最後に退官した明示十九年
(1886) のことであった。新しい廣瀬家では竹田市字竹田字山川二一一三番地であった。その新しい家に廣瀬武夫は明治二十五年
(1892) 七月四日、初めて帰省して一週間滞在した。廣瀬武夫は海軍少尉でハワイやオーストラリアへの遠洋航海も体験した立派な海軍軍人であった。廣瀬一家、なかんずく祖母智満子の嬉しさは限りがなかった。彼が帰省した廣瀬家の道一つ挟んだ斜め向かいが、瀧廉太郎の家であった。当時廣瀬武夫は数え二十五歳、瀧廉太郎は十三歳であった。海軍軍服に身を包んだ廣瀬武夫は、十一ほど年下の瀧廉太郎から見れば羨望
の人であった。廣瀬武夫のこの時の帰省から、瀧廉太郎との交遊が始まったものと思われる。後にライプチッヒ王立音楽院 (現メンデルスゾーン音楽演劇大学)
留学中の廣瀬武夫はサンクト・ペテルブルグ留学中の廣瀬武夫に 「荒城の月」 の楽譜を送って来た。廣瀬武夫は知人宅 (多分後に述べるアリアズナの邸宅だと思われる)
に持参してピアノで演奏してもらった。居合わせた人々は皆かんどうして、 「一体これは誰の作曲ですか」 と尋ねた。廣瀬は胸を張って 「僕の友人です。勿論日本人です」
と答えた。しかし、こんな素晴らしい曲が日本人に作曲が出来る訳がないと、ほとんど誰も信じなかった。廣瀬は憤慨に堪えなかった。この間の真相を明かにする手紙があったと言う。多分、兄勝比古の妻春江宛のものと思われるが、春江の娘馨子けいこ
の長女倫子が終戦を迎える時、一億玉砕を信じる軍人一家に育った身として、瀧廉太郎との交際を明らかにする手紙を他の手紙や書類と共に焼却してしまったとのことである。以上は馨子の次女高城知子の回想からである。 |