廣瀬武夫の兄は勝比古
といい、武夫より七歳年上であった。藩校由学館ゆうがくかん
に学び、海軍兵学校の予備門ともいうべき攻玉社こうぎょくしゃ
を経て海軍兵学校を明治十六年 (1883) 一月に卒業した。 武夫は兄の跡を追うかの如く攻玉社に入学すべく十月に上京した。彼は、勤皇討幕運動における父の同志であった山縣やまがた
小太郎こたろう (1830〜95)
の家 (本所松井町) に寄宿した。兄も山縣家に寄宿していたのである。山縣は海軍省に出仕し、当時は赤羽の砲兵工廠ほうへいこうしょう
に勤務していた。山縣は晩酌の度に、 「武士もののふ
の腹切り刀右に持ち左の手にて事をなさばや」 という 「腹切り歌」 と称する和歌を歌うのが常であった。書生としてこの和歌の謹聴を余儀なくされた廣瀬勝比古も武夫も、いつしか武士の真髄を歌ったものとして脳裡の深く刻み込んでいった。 攻玉社には十二月に入学し、十八年
(1885) 九月、優等な成績で卒業した。そして同年十二月、憧れの海軍兵学校に十五期生として入学した。当時の海軍兵学校は築地にあった。江田島に移ったのは、明治二十一年
(1888) 八月のことであった。 廣瀬武夫の海軍兵学校生活で痛恨事が起こった。それは明治二十一年 (1888)
三月三十日に開かれた王子の飛鳥山への分隊対抗の駆足行軍で廣瀬の分隊は見事優勝したものの、彼自身は右下肢を負傷して重傷の骨膜炎になったのである。あわや片脚切断かというところを、数回にわたる手術で隻脚せっきゃく
になることは免れた。退院できたのは六月下旬であった。一学期は完全に授業を休んだ結果となり、この空白は成績に大きく影響した。明治二十二年 (1889)
四月に卒業した時には、席次はなんと八十人中六十四位であった。廣瀬武夫は父親宛の手紙において、 「頑児がんじ
ハ、成績ココニ六十四、六十三人待チ続ケタル意中ノ苦、多年不勉強ノ報トハ云ヒ乍なが
ラ、屡々なが 兄ノ奨励スルニモ拘かか
ハラズ、漸ようや ク及第スルコトヲ得シハ、実ニ慙愧ざんき
ノ至リニ堪た ヘザリキ」
と述べている。 |