廣瀬武夫が生を受けた武田は、山紫水明の地であった。竹田は風光が明媚
なだけでなく、石垣が日本一美しく且つ堅牢な岡城がある。岡城は大野郡緒方荘の武将・緒方三郎惟栄これよし
が兄頼朝から追われる源義経を迎え入れる為に文治元年 (1185) 築城したものだと伝えられている。大友宗麟そうりん
の時代には岡城は志賀氏の居城となり、天正十四年 (1586) には豊後攻略を目指す島津軍三万七百人に包囲された。守は弱冠十八歳のキリシタン武将・志賀親善ちかよし
に率いられた僅か一千六百名の軍勢であった。しかし親善は島津軍の猛攻から岡城を守りきった。豊臣秀吉は親善がキリシタン大名にであるにも関わらず激賞し、感状を与えている。志賀親善は世に知られていないが、古今稀な名将であった。岡城跡は廣瀬武夫より十一歳若い瀧廉太郎が
「荒城の月」 の作曲の想を得たところでもある。いま岡城跡には、直入なおいり
郡高等小学校のおいて瀧の三円後輩の朝倉文夫製作の 「瀧廉太郎像」 が建っている。 廣瀬武夫は風光明媚な竹田、なかんずく岡城跡が好きであった。当時の竹田のことを司馬遼太郎は
「その地勢的性格からして人情の悠長ゆうちょう
さからいっても、大げさに言えば桃源郷とうげんきょう
の城下町と言っていい」 ( 『飛ぶが如く』 ) と述べている。その竹田を廣瀬武夫は離れなければならなくなった。武田が明治十年
(1877) の西南戦争の戦場になって廣瀬家も消失し、父が前年から高山区裁判所長として単身赴任していた岐阜県高山に一家を挙げて移り住まなければならなかったのである。廣瀬武夫は竹田学校
(当時男子部は竹田小学校ではなく竹田学校と称し女子部は竹田女学校と称した) から高山の煥章かんしょう
学校 (現高山市立東小学校) へ転入学した。 熊本城を包囲攻撃した西郷軍は、ついに難攻不落の熊本城を落とせず、田原坂たばるざか
の戦いに敗れた後は鹿児島に落ち延びたと、一般に理解されている。しかし、そうではないのである。野村忍介おしすけ
率いる奇兵隊約三千名が比較的警備力の手薄だった大分に転進してきたのである。そして五月十二日には佐伯警察署の重岡仮分署 (南海部みなみあまべ
郡字目村、現佐伯市) を奪い、翌十三日には竹田を占領した。野村忍介は竹田に拠点を設けようと思ったのである。竹田には堀田政一を指導者として西郷軍に合流しようとする不平士族による
「報国隊」 の内応の動きもあった。 このような竹田での情勢を政府軍が目視するはずがなく、二十九日には西郷軍が大野郡に向けて撤退するまで二週間にわたって、竹田は戦いの舞台になった。竹田を包囲した政府軍は二十九日朝、総攻撃をかけたのであるが、終日の砲火によって町に火災が起こった。さらに西郷軍が撤退に際して放火した。その結果、竹田の町は火の海と化した。廣瀬武夫の家のある茶屋ノ辻は、特に激戦地であった。廣瀬家の家屋は全焼したのである。 |