明治三十四年
(1901) 十月、日露関係はいよいよ険悪となり、廣瀬にも帰国命令が届いた。 海軍省の命令は、翌年三月末までに帰国せよとのことであったが、附帯命令としてシベリア方面、ことにシベリア鉄道のアムール川沿いの建設状況を
「視察せよ」 とのことだった。シベリア鉄道が完成すれば、極東へのロシア軍陸軍と物資の輸送が容易になる。これは日本にとって脅威だった。 また、日本とロシアが戦争することになれば、日本にとって最大の敵はロシアの
「冬将軍」 である。シベリアの奥地に誘い込まれれば、日本軍はロシア軍よりも先に冬将軍に敗北してしまう。これもなた、当時の軍部が最も心配していたことだった。 そこで廣瀬が計画したのは、日本人で誰もやったことのない厳冬期のシベリア横断だった。無謀な計画であり、命の保障は全くない。 だが、それを日本が必要とするのなら、自分の命にかえてもこれをやる。廣瀬武夫とはそういう人である。 サンクト・ペテルブルグから列車でモスクワに出て、そこからスレチェンクスまでのおよそ六千キロをシベリア鉄道で移動し、さらにスレチェンクスからハバロフスクまでの未完通部分二千二百キロは、馬橇
による単独横断である。 年が明けた一月十六日、廣瀬はサンクト・ペテルブルグを離れた。 馬橇による横断距離は北海道 ─ 鹿児島間より長い。連日、気温マイナス三十度というシベリアの荒涼とした大地を、自分で買った粗末な橇に乗り、馬に引かせて走るのだ。想像しただけでも恐ろしい。おそらく、廣瀬自身も恐怖におののいていたに違いない。 途中、病と闘いながらも、およそ半月という驚異的なスピードで、廣瀬は命がけのシベリア馬橇横断をやってのけた。これにはロシア人でさえ驚いた。まさに廣瀬を
「冒険家」 と呼ぶにふさわしい快挙である。 |