明治三十年
(1897) 、海軍省は、日清戦争のため途絶えていた海外への留学生派遣を再開した。 派遣先は、フランス・ドイツ・イギリス・アメリカ・ロシアの五大海軍国である。留学生のに選ばれる基準は、海軍兵学校の卒業成績だった。 選考の最終認定官は、海軍軍務局長の山本
権兵衛ごんのひょうえ 少将である。 選考会議において、次の四名は選考官たちの異論なく決した。 フランスは第十一期、成績二十六名中二位の村上格一かくいち
大尉 (海軍大臣秘書官) ドイツには第十二期、成績十九名中三位の林三子雄みねお
大尉 (海軍大学校教官) イギリスには第十五期、成績八十名中一位の財部たからべ
彪たけし 大尉 (巡洋艦
「高雄」 分隊長) アメリカには第十七期、成績八十八名中一位の秋山真之さねゆき
大尉 (巡洋艦 「八重山」 分隊長) 選ばれた四名のうち、財部と秋山は廣瀬の親友である。ことに財部は兵学校同期のクラスヘッド
(首席) だった。最後まで決まらなかったのはロシアである。 ロシア派遣の候補者名が廣瀬武夫だったため、選考官たちは頭を抱えた。廣瀬の成績は八十名中六十四位、選考基準を大きく外れている。 山本軍務局長は、
「六十四位というのは何かの間違いだろう。六位か四位ではないのか」 と、側近に調べ直させたほどだった。 資金が調べた結果、廣瀬の成績が六十四位であることに間違いはなかった。だが、ここで面白いことがわかった。秋山と共に学んだ第八期水雷術練習尉官教程の卒業成績は、廣瀬が首席で秋山が二位であることが判明したのだ。 山本局長は
「ほう・・・・それでは、廣瀬は秋山よりも優れているということだな。よし!」 すらすらと決定のサインをした。こうして廣瀬のロシア留学が決まったのである。 |