〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part T-Z』 〜 〜
エ ピ ソ ー ド で 綴 る そ の 人 間 力

2012/10/29 (月) 艦 隊 勤 務 明治二十二〜三十年 (1889〜97)

じつは、廣瀬は海軍兵学校の試験に一度失敗している。柔道に熱を上げすぎたせいか、二度目の追加募集でようやく合格したのだ。
最初の試験に落ちた時、廣瀬は本気で侠客きょうかく になろうと考えたふしがある。廣瀬の男気おとこぎ な性格からすれば、あるいは本当だったかも知れない。なぜなら、廣瀬は侠客の清水次郎長 (1820〜83) を尊敬していたからだ。
兵学校を卒業の後、乗艦勤務となった廣瀬は、乗っている艦が清水港に碇泊すると、真っ先に次郎長が営む船宿 「末廣すえひろ 」 を訪ねた。いくたびも修羅場をくぐってきた次郎長親分の、迫力ある武勇伝を聞くのがなによりの楽しみだったようだ。
筆者は二年ほど前、清水港のそばに復元されている船宿 「末廣」 を訪ねたが、その近くには 「清水次郎長 廣瀬武夫会談の地」 を示す立派な石碑が建立されていた。
デッキ・オフィシャル (甲板士官) 当時の広瀬について特筆すべきは、半年間に及ぶオーストラリア方面への遠洋航海での出来事だろう。
軍艦 「比叡ひえい 」 に乗り組んだ廣瀬は、筆に任せて気ままな航海日記を綴った。かの有名な 『航南私記』 である。
艦隊を組む 「比叡」 「扶桑ふそう 」 「金剛こんごう 」 の三大新鋭艦が太平洋の真っただ中で台風に遭遇した。この時の模様を漢詩風に記した 「颶風行くふこう 」 は、じつに面白い。 『ロシアにおける廣瀬武夫』 の著者・島田謹二先生が評したように第一級の海洋冒険小説なのである。
「大日本帝国海軍において遭遇した難風の第一」 と語られるほどの暴風雨と波浪の中で、自ら乗組員を励まし、不眠不休で艦を守った。
遭難ギリギリの過酷な状況にあって、暴風雨の激しさと艦上の様子を冷静に見つめ、じつに詳細かつ詩的に綴っているのである。廣瀬の度胸と、卓越した文書力の成せるわざ であろうが、廣瀬が 「文芸家」 といわれる一面はここにもある。

著:櫻田 啓
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