廣瀬は十五期生として、築地の海軍兵学校に入校した。 兵学校名物である全校飛鳥山徒競争
(チーム・マラソン) では、廣瀬をリーダーとするチームが、見事名誉ある優勝を果たした。 ところが、このとき廣瀬の足は重い骨膜炎
に冒されていた。そのことを誰にも明かさず、痛みも訴えず、放課後の激しいトレーニングを積んでいた。 大会翌朝の点呼において、廣瀬の異変に気付いた当直教官が軍医に診察してもらうと、軍医は
「即刻切断」 と宣告した。それほどに重い病気だったのである。 足を切断すれば、兵学校を退学しなければならない。廣瀬にとっては 「死刑」 を宣告されるようなものだった。廣瀬は
「死んでも足は切断しない」 と猛烈に反対した。 軍医たちは覚悟を決め、大手術を重ねた。すると、神が廣瀬に味方したのか、奇跡的に廣瀬の足は恢復かいふく
した。廣瀬のすごいのはそのあとである。 兵学校はその後築地から江田島に移った。校舎の背後には馬の背のような古鷹山ふるたかやま
(標高394メートル) がある。 足が治った廣瀬は放課後、さっそくこの山へのかけ足登山を始めた。その回数は卒業までに百回ともいわれている。現在でも海上自衛隊の術科学校生徒や幹部候補生らが挑戦いているというが、いまだに廣瀬の記録は破られていないそうだ。 そんな廣瀬の姿に、兵学校の生徒たちは驚きと尊敬を込めて、
「幽霊のようなやつ」 とささやき合った。 |