〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part T-Z』 〜 〜
エ ピ ソ ー ド で 綴 る そ の 人 間 力

2012/10/29 (月) 上 京 ・ そ し て こう ぎょく しゃ 時 代 明治十六〜十八年 (1883〜85)

勝比古かつひこ の海軍兵学校入学と同時に、廣瀬は念願の上京を許された。
寄宿先は兄と同じ本所ほんじょ山縣やまがた 家だった。山縣小太郎 (1830〜95) は竹田出身の官吏で父親の盟友だったから、父は兄弟の教育を安心して山縣に託したのであろう。
山縣の家から芝の攻玉社こうぎょくしゃ (東京の三大私塾の一つ) に通ったが、あるとき、山縣から教育者の嘉納かのう 治五郎じごろう (1860〜1938) を紹介され、講道館に入門した。講道館の草創期であり、この時より柔道漬けの生活が始まった。この意味で、廣瀬は嘉納治五郎の高弟として、日本柔道の基礎を築いた人といってもよい。廣瀬が 「柔道家」 といわれるゆえんはこのにある。
のちに 「柔道バカ」 と異名を取るほど柔道に熱中した廣瀬は、上司の八代やしろ 六郎ろくろう (1860〜1930) や友人財部たからべ たけし (1867〜1949) とともに、海軍兵学校の正課に柔道を取り入れるように働きかけ、ついにそれを実現している。
兵学校を卒業してからも、乗艦勤務の休暇には講道館に通い詰め、めきめきと腕をあげた。
あるとき、講道館恒例の紅白試合が行われ、並みいる強豪をたてつづけに五人破り、嘉納艦長から異例にも、即日、二段の免許を与えられた。
このことがよほど嬉しかったのだろう。廣瀬は試合の模様を父親宛の手紙にくわしく伝えている。そして末尾に、 「愉絶ゆぜつ 快絶かいぜつ 、講道館万歳ばんざい 、嘉納先生万歳」 としたためた。

著:櫻田 啓
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