兄勝比古
の海軍兵学校入学と同時に、廣瀬は念願の上京を許された。 寄宿先は兄と同じ本所ほんじょ
の山縣やまがた 家だった。山縣小太郎
(1830〜95) は竹田出身の官吏で父親の盟友だったから、父は兄弟の教育を安心して山縣に託したのであろう。 山縣の家から芝の攻玉社こうぎょくしゃ
(東京の三大私塾の一つ) に通ったが、あるとき、山縣から教育者の嘉納かのう
治五郎じごろう (1860〜1938)
を紹介され、講道館に入門した。講道館の草創期であり、この時より柔道漬けの生活が始まった。この意味で、廣瀬は嘉納治五郎の高弟として、日本柔道の基礎を築いた人といってもよい。廣瀬が
「柔道家」 といわれるゆえんはこのにある。 のちに 「柔道バカ」 と異名を取るほど柔道に熱中した廣瀬は、上司の八代やしろ
六郎ろくろう (1860〜1930)
や友人財部たからべ 彪たけし
(1867〜1949) とともに、海軍兵学校の正課に柔道を取り入れるように働きかけ、ついにそれを実現している。 兵学校を卒業してからも、乗艦勤務の休暇には講道館に通い詰め、めきめきと腕をあげた。 あるとき、講道館恒例の紅白試合が行われ、並みいる強豪をたてつづけに五人破り、嘉納艦長から異例にも、即日、二段の免許を与えられた。 このことがよほど嬉しかったのだろう。廣瀬は試合の模様を父親宛の手紙にくわしく伝えている。そして末尾に、
「愉絶ゆぜつ 快絶かいぜつ
、講道館万歳ばんざい 、嘉納先生万歳」
としたためた。 |