〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part T-Z』 〜 〜
廣 瀬 武 夫 が 現 代 に 語 り か け る も の

2012/10/28 (日) 誠 実 に 生 き る

こういう人間に仕立て上げられていく過程では、なんといっても先ず家族の指導としつけ 、そしてすぐれた指導者の教育などが必要だ。その点、廣瀬武夫は恵まれていた。父の謹厳な中にも愛情のこもった躾、そして兄の分別、祖母のきびしい躾などが、純粋な武夫の精神を如何なく発揮させるように磨き上げた。武夫は徳川時代でも十分適用する “武士” に成長する。父からは勇気を、兄からは分別を、そして祖母からは強い精神をそれぞれ与えられた (母は幼い時に亡くなっているので、祖母が母代わりに武夫を育てた) 。武夫はこの祖母を実母のように慕っている。
そして武夫がこれらの躾や教育や指導の中から自分なりに生んだ性格の一つが、
「誠実に生きる」
ということである。違う言葉で言えば、
「絶対にウソをつかない」
ということだ。勝海舟 (1823〜99) が明治になってからの思い出で、 「外交は、誠実の二字に尽きる」 と言っている。廣瀬武夫は、ロシアにおける外交をすべてこの
「誠実さを貫く」
ということで終始している。この誠実さは前に書いた 「恕の精神と忍びざるの心」 を含んでいるから、相手はたちまち武夫を信頼する。ロシア時代、家族同様に付き合ったロシア人の二家族の武夫への信頼と優遇は、まさに武夫の、
「絶対に人をだま さない」
という誠実な精神に胸を打たれたからだ。両家の娘が、心の底から武夫を慕うようになったのも、この人柄に胸を打たれてのことである。武夫はかなり早くからロシア語を学んだ。それは、
「やがてロシアは日本の敵になる。両国間に戦争が起こる」
ということを予知していたからだ。しかし彼はその仮想敵国に滞在しても、決して周囲の人々を憎むような事はしなかった。両家のうち一家は、高級軍人の家庭だ。武夫は足しげ く出入りした。しかし、
「この高級将校から、ロシアの情報を得よう」
などという汚れた気持は全くない。純粋に、
「人間対人間の交流」
を行ったのだ。今で言う “異国間の市民交流” である。彼は誠実な人間だから、敵情を知るためにも、
「必ず自分の眼で見る。それには体験する」
ということを重んじた。ロシアにいた時でも、かなり他国に赴き、自分の足で歩き、目で確かめ、耳で聞いている。駐在を終えて帰国する時も、ロシアの極東情勢を探るため危険を冒して厳冬のシベリア経由で帰国している。彼の予測通り、その後起こった日露戦争の間においても、彼に接したロシア人は決して彼を憎む事はなかったのではなかろうか。むしろ、 「廣瀬と戦うことは不幸だ」 と思ったに違いない。

著:童門 冬二
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