彼は日露戦争で戦死し、
“軍神” と呼ばれた。ロシア艦隊のこもる旅順港の入り口を塞ぐための任務を行い、任務遂行の帰路、敵の砲弾を受けて、肉体が四散する (と当時はいわれた) 死を遂げたためだ。大東亜戦争のときの
“特攻隊” の明治版だ。しかし大東亜戦争の特攻隊と違うのは、広瀬たちの与えられた任務は、 「死の危険があるが、必ず生還せよ」 と命令を受けていることだ。廣瀬が戦死したときも、任務を終えて帰途についたボート上での被弾であった。このとき廣瀬がもっとも苦心したのが、 「自分と自分の部下の全員が無事に生還する」 ということであった。そのために、杉野という部下の行方がわからず、ギリギリの段階まで武夫は船内をたずねて歩いてその行方を追った。この時杉野はすでに戦死していたかもしれない。しかしその遺体すら発見できなかったために、廣瀬は三度船に戻って捜し歩いたのである。この姿勢は明らかに、 「部下一人として残さない。必ず生還させる」 という彼の意志が働いている。
“軍神” と言う言い方の中には、この “部下思い” というヒューマニズムとともに、 “全員生還” の意思が大きく柱となっているのではなかろうか。 しかし一方において、 「戦争は罪悪である」 という考え方がある。筆者もそれに賛成だ。筆者も戦争中は、海軍の飛行兵であり終戦時には特攻隊に属していたから、余計その感が深い。 「敵に攻められたときは、自分の国は自分で守らねばならない」 という基本的なことは、後期高齢者になった今もわきまえている。しかし、自衛のためであっても戦争を他国で行う事にはためらいがある。その行われる国の国民の事を考えるからだ。日露戦争の起こった原因については、現在も色々な論議がある。満州
(中国) ・朝鮮半島へと権益の触手を伸ばしてきたロシアに対し、 「朝鮮半島を突破されれば、ロシアの次の狙いは日本だ」 ということもあったに違いない。しかしそれはまた別のテーマであって、この稿では深く触れない。修身・斉家・治国・平天下の道を着実に、しかも誠実な気持を持って歩いた廣瀬武夫は、その平天下の過程で、国家意志に忠実に従ったのだ。これもまた、彼の保つ、 「護民官意識」 の発露であった事は間違いない。決して自分の利益や出世のためにその任務についたわけではない。 「旅順口を閉塞する事が、日本のためであり、同時に日本国民のためになる」 と信じたからこそ、従容
として死を伴う危険な任務についたのだ。 では、その廣瀬武夫から現代の私たちが学ぶことは一体何だろうか。一つは何度も書く 「恕の精神・忍びざるの心」 によって成立する
「他者へのやさしさと思いやり」 である。 「相手の身になってものを考える」 ということは、今最も必要な心構えだ。そして、それにはある程度の 「自制」 が必要だ。武士道はすでに古いと言われるが、武士道は、 |