廣瀬武夫が育った竹田市
(岡藩の行政地域) にも、この考え方が強くしみこみ、岡藩 (藩主は中川氏)
の伝統も、この精神を大切に保持してきた。そして、トンエンルをくぐらなければ市街地に入れない竹田市の地理的状況が、ある意味で、この伝統的精神を、 「江戸時代はもちろん、明治の時代にも、その大部分を保存させてきた」 と言っていいのではなかろうか。廣瀬武夫の父重武ももろにその影響を受けていた。タイム・トンネルびよって尋ね得る岡藩の伝統は、汚される事なく、清流のように流れつづけていたのである。そしてその流れの中にそのまま身を置いたのが、廣瀬重武うあ武夫であった。もちろん武夫の兄勝比呂
もおなじだ。 この “恕の精神・忍びざるの心” に基づく 「護民官意識」 が、かれら兄弟を海軍軍人に仕立て、そして軍人の責務である、 「国民を守り、国を守る」 という覚悟に発展させていく。廣瀬武夫の発揮した軍人精神はそのまま、 「恕の精神・忍びざるの心の発動」 にほかならない。 儒学の教えに、人間のコースを定めたたどり方がある。即ち、 「修身・斉家・治国・平天下」 だ。逆にたどると平天下というのは、 「天下
(すなわち国家) を平らかに運営する」 という意味である。しかしそのためには、治国 (ここでいう国は藩のこと)
を安定させる必要がある。 そして藩を安定させるためには、それぞれ藩に属する家庭が正しく整っていなければならない
(斉家) 。しかしその家庭を正しく整わせるのは、家族のひとりひとりだ。 そうなると、究極的には、 「家族の構成員であるひとりひとりの個人が、自分の身を正しく修めなければならない
(すなわち、生涯学習しなければならない=修身) 」 ということになる。明治時代の人々は、岡藩の住民に限らず、日本国挙げてこのコースを守った。したがって、日本国家の役に立つ人間になるためには、まず、 「しっかりと自分自身を修めるような学習」 が必要だった。今でいう
「生涯学習」 のことである。その生涯学習も、自分の利益のためではなく、他者のため、そして社会の為に自分を高めていく、という姿勢が求められた。 |