〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part T-Z』 〜 〜
廣 瀬 武 夫 が 現 代 に 語 り か け る も の

2012/10/28 (日) 模 範 と 責 務 感

士農工商という身分制の頂点に立った武士は、
「政治と行政を行うべく天から命ぜられた役人」
になった。彼らは生産者ではない。彼らの生計は農民の納める年貢 (主として米) によってまかな われる。今で言えば、
「納税者によって養われる存在」
である。昔の事だから、現在のような民主主義に基づく 「公僕意識」 はまったくない。
しかし良心的な武士たちは自分たちの心構えの基本になっている儒学から、多くのことを学んだ。とくに、
「政治を行う者はどうあらねばならぬか」
という命題は常に彼らの心におく関心事であった。江戸時代は、武士のブレーンが僧から学者に変わった時代である。戦国時代までは仏教に るお坊さんが主たるブレーンだったが、家康の林羅山登用によってこれがカラリと変わった。江戸時代の武士のブレーンはほとんどが学者になる。これらの学者の指導によって、 「年貢によって養われる武士のあるべき姿とその心構え」 が説かれた。その帰着するところは、

・ 武士は、農工商三民の模範にならなければならない。
・ 護民官としての責務感を常に感じなければならない。

の二つだった。特に後者は、
「愛民の精神を持ち続けること」
を強く求めた。
その一点について、武士は学者と稟議を重ね、やがて、
じょ の精神」
を最も尊重するようになった。恕の精神というのは 『論語』 の中にある、あるエピソードから発している。子貢しこう という人物が、あるとき師の孔子こうし ににきいた。
「自分は先生 (孔子) の門人の中でも、もっとも頭が悪いと思います。その頭の悪いわたくしが、先生のお示しになるたった一つの文字を守り抜けば、人の道をまっとうできるというものがあればお教えください」 と願った。孔子は言った 「それは恕という字だ (子のたまわく、それ恕か) 」 。子貢は 「恕」 について考えた。字引を引くと 「いつも相手の身になってものを考えるやさしさと思いやりのことをいう」 と説明されてあった。子貢はなるほどと感じ、以後 「恕」 の一字を死ぬまで大切にした。
これに加えて、筆者 (童門) はある考えを加えたい。それは、孔子より少し後の時代に生まれた孟子もうし がこのことを知って、
「恕という字はたしかに大切だが、このままでは怒るという字と間違えたり、わかりにくい面がある。開こう」
と考えて、この恕の字を 「忍びざるの心」 と訳した。忍びざるの心とおいのは、例えば大野川のほとりで車椅子の人か、眼の見えない人が落ちかかったいる時に、これを見た人はたちまち、 「あ、危ない」 と感じて衝撃的に助けに走り出す。この助けに走り出す衝動をすなわち “忍びざるの心” と孟子は名づけたのである。このことは、自分が車椅子の人か、眼の見えない人に立場を置き換えて考えれば、その危機を誰かが救ってくれなければ川に落ちておぼ れてしまう、という感覚だ。
江戸時代の良心的な武士たちは、治者としてこの 「恕の精神と忍びざるの心」 を持つことを心がけた。
「常に住民の身となって、地方行政を考える」
ということである。

著:童門 冬二
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