〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part T-Z』 〜 〜
廣 瀬 武 夫 が 現 代 に 語 り か け る も の

2012/10/28 (日) 君 、 君 た ら ず と も ・ ・ ・

大坂の陣で、豊臣家を滅ぼした徳川家康はそれまで 「慶長けいちょう 」 と称されていた年号を、突然 「元和げんな 」 に変えた。これは家康の平和志向を示すものであって、あきらかに、
「平和のはじめ」
の意味である。慶長二十年 (1616) 七月に新しく元和という年号を用いるようになった家康は、次々と法律を出した。この法律をまとめて 「偃武令えんぶれい 」 と言っている。偃武というのは、
「武器を倉庫にしまって鍵をかけ、二度と出さない」
という意味だ。これも明らかに平和宣言である。しかし日本国家を平和の経営するためには、戦国時代の社会的風潮をそのままにしておくわけにはいかない。戦国時代の社会的風潮の大きな柱はいうまでもなく “下克上げこくじょう (下が上を越える・下が上に勝つ)”だ。能力主義・実績主義であった戦国では、これが逆に各人の能力を100パーセントはっきさせ、それが時代を動かしていく。家康の望んだ日本の平和も、ある意味ではこの下克上の発揮によって実現したといっていい。家康自身も下克上の実現者の一人である。しかし日本国の平和経営において、この下克上の風潮は困る。下克上の組織におけるあらわれ方は、
「君、君たらずんば、臣、臣たらず (上が上らしくなければ、下も下の責任を果たさない)
だ、家康は悩んだ。
「日本国を平和に経営するうえで、組織内においてこういう反秩序的な行為がまかり通るようでは、到底組織の安定は成り立たない」
と思うからだ。そこで導入したのが 「儒学」 である。林羅山はやしらざん (1583〜1657) の提唱による。羅山がすすめた儒学は、
「大義名分を重んずる。そのために人間に分限を設ける」
ということである。大義名分を明らかにする中には、 「君臣の関係を正常に保つ」 というのがある。これによって、
「君、君たらずとも、臣、臣たらざるべからず (上が上らしくしなくても、下は下の責務を果たさなければならない)
という論理が成り立った。上部にとってはなは だ都合のよい論理だ。しかし家康はこれを導入した。というのは、徳川幕府というのは、
「戦塵に張った幕内における臨時政府のことで、占領地域の行政をどう行うか、あるいは今後の作戦をどう立てるか」
ということを決定するいわば武士の政府だ。また藩というのは、その幕府の前に垣根から塀のように立ち並んで、幕府の安全を保つ役割を果たす。これも武士の地方政府である。従って幕府も藩も武士によって成立する政府である以上、当然武士の心構えや債務というものが生ずる。それを家康は、儒学によって統制しようとした。

著:童門 冬二
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