大坂の陣で、豊臣家を滅ぼした徳川家康はそれまで
「慶長 」 と称されていた年号を、突然
「元和げんな 」 に変えた。これは家康の平和志向を示すものであって、あきらかに、 「平和のはじめ」 の意味である。慶長二十年
(1616) 七月に新しく元和という年号を用いるようになった家康は、次々と法律を出した。この法律をまとめて 「偃武令えんぶれい
」 と言っている。偃武というのは、 「武器を倉庫にしまって鍵をかけ、二度と出さない」 という意味だ。これも明らかに平和宣言である。しかし日本国家を平和の経営するためには、戦国時代の社会的風潮をそのままにしておくわけにはいかない。戦国時代の社会的風潮の大きな柱はいうまでもなく
“下克上げこくじょう
(下が上を越える・下が上に勝つ)”だ。能力主義・実績主義であった戦国では、これが逆に各人の能力を100パーセントはっきさせ、それが時代を動かしていく。家康の望んだ日本の平和も、ある意味ではこの下克上の発揮によって実現したといっていい。家康自身も下克上の実現者の一人である。しかし日本国の平和経営において、この下克上の風潮は困る。下克上の組織におけるあらわれ方は、 「君、君たらずんば、臣、臣たらず
(上が上らしくなければ、下も下の責任を果たさない) 」 だ、家康は悩んだ。 「日本国を平和に経営するうえで、組織内においてこういう反秩序的な行為がまかり通るようでは、到底組織の安定は成り立たない」 と思うからだ。そこで導入したのが
「儒学」 である。林羅山はやしらざん
(1583〜1657) の提唱による。羅山がすすめた儒学は、 「大義名分を重んずる。そのために人間に分限を設ける」 ということである。大義名分を明らかにする中には、
「君臣の関係を正常に保つ」 というのがある。これによって、 「君、君たらずとも、臣、臣たらざるべからず (上が上らしくしなくても、下は下の責務を果たさなければならない)
」 という論理が成り立った。上部にとって甚はなは
だ都合のよい論理だ。しかし家康はこれを導入した。というのは、徳川幕府というのは、 「戦塵に張った幕内における臨時政府のことで、占領地域の行政をどう行うか、あるいは今後の作戦をどう立てるか」 ということを決定するいわば武士の政府だ。また藩というのは、その幕府の前に垣根から塀のように立ち並んで、幕府の安全を保つ役割を果たす。これも武士の地方政府である。従って幕府も藩も武士によって成立する政府である以上、当然武士の心構えや債務というものが生ずる。それを家康は、儒学によって統制しようとした。 |