〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part T-Z』 〜 〜
廣 瀬 武 夫 が 現 代 に 語 り か け る も の

2012/10/28 (日) 勤 皇 精 神 と 護 民 官 意 識

廣瀬武夫の 「武」 の字はいろいろな意味がある。それはもちろんここに書いた “武士の武” の意味を示すことは明らかだ。しかしそれ以上に、
「廣瀬家の先祖は、南朝時代に宮方みやがた (後醍醐ごだいご 天皇) に味方して活躍した、菊池氏だ」
と言われる。菊池氏の一族は 「武」 がつく人物が多い。もともとは藤原氏の流れだといわれ、十二代目の当主菊池武時たけとき (?〜1333) は、“主上ご謀反むほん ” と言われた後醍醐天皇の元弘の乱 (1331) に加担し、大いに幕府方と戦った。この反幕府精神は、代々引き継がれた。その反骨精神を示すのが、それぞれの名前に加えられた 「武」 の一字であったと言ってもいいだろう。
廣瀬家にもその流れが伝わった。武夫の父重武しげたけ の武も、その意味を含めていることは間違いない。子供の時から武夫は祖母にこのことを懇々と教えられたという。すなわち、

・ 廣瀬家は、肥後 (熊本県) 菊池氏の流れを汲んでいること。
・ 菊池氏は天皇様に忠節を尽くしぬいたこと。
・ おまえ (武夫) の父重武 (すなわち祖母の子) も、若いときから勤皇運動に身を捧げ、何度も藩か ら罰を受けても りずに活動を続けたこと。
・ 明治になってから、新政府に裁判官として仕えるようになったが、天皇を敬う気持は依然として保 っている事。
武夫はこの祖母の教えを拳々服膺けんけんふくよう した。心にきざ み込んで忘れなかった。彼の、
「勤皇精神と護民官意識」
の二つは、最後まで守り通された。彼の勤皇家であったことを示すいちばんいい例のひとつに、彼がロシアに駐在していた時に、彼を慕うようになったロシア娘がある時日本の天皇を批判したために、彼は烈火のごとく怒ったという話が残されている。武夫が壮烈な戦死を遂げた後に、この娘が武夫の義姉に切々と武夫を偲び、武夫の偉大さがいまだに自分の胸や家族に残っている旨を書いた手紙を送っている。ロシア娘はおそらく、
「自分の言葉が、なぜ廣瀬武夫さんをあのように怒らせたのか」
ということは、終生わからなかったに違いない。
著:童門 冬二
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