では、廣瀬武夫が生まれた豊後
岡 藩 (大分県竹田たけだ
市) がその舞台で演じた特技とはいったいなんだったったろうか。一言でいってそれは、 「武士精神」 に尽きる。しかしこの武士精神にも各藩による
“それぞれのスピリット” がある。廣瀬武夫によって示された岡藩の武士精神は、 「護民官意識」 といっていいのではなかろうか。この護民官意識はあきらかに儒教からきている。廣瀬武夫も熱心に儒教を学んだ武士であり、同時に日本特有の
“ますらお” のやさしさと思いやりを兼ね備えいぇいた。論語でいう、 「恕じょ
の精神」 である。また孟子もうし
の “忍びざるの心” に通ずる。自分を犠牲にしても、 「弱い者や虐しいた
げられた者を、身を捨てて守り抜こうとする心意気」 のことである。 大分県には古くから 「大野川おおのがわ
文化」 と 「宇佐うさ ・国東くにさき
文化」 というのがある。いずれも共通するのが 「磨崖仏まがいぶつ
」 を中心とする石造文化だ。JRの豊肥ほうひ
本線は、犬飼いぬかい 駅から豊後ぶんご
竹田たけだ 駅までの各駅が、それぞれ名所としてこの石仏を保存している。この中でも現在の竹田市は
「伝統的文化都市」 の指定を受け、周辺の農業地帯と連携して、 「文化的田園・観光都市」 をめざしてきた。 “荒城の月と緑と花の町” を合言葉にしてきた。荒城の月というのは、有名な瀧
廉太郎れんたろう (1879〜1903)
という音楽家がこの市で少年時代を過ごしたからだ。荒城の月の荒城は江戸時代、この区域の中心だった岡城をさす。その岡城址に瀧廉太郎の銅像を作ったのが、この地に深いかかわりを持つ彫刻家の朝倉あさくら
文夫ふみお
(1883〜1964) だ。朝倉文夫は “彫聖ちょうせい
” と呼ばれるが、もう一人 “画聖がせい
” と呼ばれるのが南画なんが
の田能村たのむら 竹田ちくでん
だ。そして瀧廉太郎は “楽聖がくせい”
と呼ばれている。こういうすぐれた絵画・音楽・彫刻などの有名作家と共に、廣瀬武夫もこの町で生まれ育った。現在、廣瀬武夫は、城址麓の廣瀬神社にまつられている。 竹田市は、周囲を岩山で囲まれているので、鉄道も道路も市に入るためには、トンネルをくぐらなければならない。トンネルはいってみれば
“タイムトンネル” の役割を果たしている。そのために、竹田市地域の文化や住民の気質は “純粋保存” されてきたといっていい。廣瀬武夫は、その、 「純粋保存された竹田スピリット
(精神) の具現者」 の一人である。 |