〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part T-Z』 〜 〜
廣 瀬 武 夫 が 現 代 に 語 り か け る も の

2012/10/28 (日) 竹 田 ス ピ リ ッ ト の 具 現 者

では、廣瀬武夫が生まれた豊後ぶんごrt> おか(大分県竹田たけだ 市) がその舞台で演じた特技とはいったいなんだったったろうか。一言でいってそれは、
「武士精神」
に尽きる。しかしこの武士精神にも各藩による “それぞれのスピリット” がある。廣瀬武夫によって示された岡藩の武士精神は、
「護民官意識」
といっていいのではなかろうか。この護民官意識はあきらかに儒教からきている。廣瀬武夫も熱心に儒教を学んだ武士であり、同時に日本特有の “ますらお” のやさしさと思いやりを兼ね備えいぇいた。論語でいう、
じょ の精神」
である。また孟子もうし の “忍びざるの心” に通ずる。自分を犠牲にしても、
「弱い者やしいた げられた者を、身を捨てて守り抜こうとする心意気」
のことである。
大分県には古くから 「大野川おおのがわ 文化」 と 「宇佐うさ国東くにさき 文化」 というのがある。いずれも共通するのが 「磨崖仏まがいぶつ 」 を中心とする石造文化だ。JRの豊肥ほうひ 本線は、犬飼いぬかい 駅から豊後ぶんご 竹田たけだ 駅までの各駅が、それぞれ名所としてこの石仏を保存している。この中でも現在の竹田市は 「伝統的文化都市」 の指定を受け、周辺の農業地帯と連携して、 「文化的田園・観光都市」 をめざしてきた。 “荒城の月と緑と花の町” を合言葉にしてきた。荒城の月というのは、有名な 廉太郎れんたろう (1879〜1903) という音楽家がこの市で少年時代を過ごしたからだ。荒城の月の荒城は江戸時代、この区域の中心だった岡城をさす。その岡城址に瀧廉太郎の銅像を作ったのが、この地に深いかかわりを持つ彫刻家の朝倉あさくら 文夫ふみお (1883〜1964) だ。朝倉文夫は “彫聖ちょうせい ” と呼ばれるが、もう一人 “画聖がせい ” と呼ばれるのが南画なんが田能村たのむら 竹田ちくでん だ。そして瀧廉太郎は “楽聖がくせい” と呼ばれている。こういうすぐれた絵画・音楽・彫刻などの有名作家と共に、廣瀬武夫もこの町で生まれ育った。現在、廣瀬武夫は、城址麓の廣瀬神社にまつられている。
竹田市は、周囲を岩山で囲まれているので、鉄道も道路も市に入るためには、トンネルをくぐらなければならない。トンネルはいってみれば “タイムトンネル” の役割を果たしている。そのために、竹田市地域の文化や住民の気質は “純粋保存” されてきたといっていい。廣瀬武夫は、その、
「純粋保存された竹田スピリット (精神) の具現者」
の一人である。

著:童門 冬二
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