〜 〜 『 寅 の 読 書 室 Part T-Z』 〜 〜
廣 瀬 武 夫 が 現 代 に 語 り か け る も の
2012/10/27 (土) "お 国 自 慢 の 競 演 時 代"
廣瀬武夫は慶応四年
(1868)
五月二十七日に生まれた。この年は九月八日に 「明治」 と改元した。つまり廣瀬武夫は明治と共に生まれ育った。
明治という時代は、 “日本の青春時代”だ。人間と同じで、青春時代にはエネルギーが噴出する。それが成功するか失敗するかはさておいて、とにかく生命の
飛沫
(
ひまつ
)
が、
雨霰
(
あめあられ
)
のように降る。当然、試行錯誤も含まれるし、
傍目
(
はため
)
をみはるような成功例も生ずる。
江戸時代の政治組織は 「幕藩体制」 といって、中央政府である徳川幕府と、地方自治体である藩
(大名家)
によって成立していた。ところが地方自治体である藩は、いまでいう “十割自治” だった。十割自治というのは、
「その藩における行政内容
(計画)
は藩の自主性に任せられるが、その行政計画を実行する経費はすべて藩で
捻出
(
ねんしゅつ
)
しなければならない」
ということである。したがって、各藩がどんなに赤字になろうと、中央政府である徳川幕府は一文の国庫補充金も地方交付税も出さない。
「藩で工夫努力して赤地を消せ」
と突き放す。いきおい各藩は、藩内における産品に付加価値を加え市場価値を高めてその費用を捻出せざるを得なくなる。これによって、各藩の産品にはその製造過程において当然企業秘密が生ずる。有名な "忠臣蔵事件" も、その原因の一端はあきらかに
赤穂
(
あこう
)
藩の産出する塩と、
吉良
(
きら
)
家の領地から産出する塩に差があって、すぐれていた赤穂藩の企業秘密を吉良側が知ろうとしたが、赤穂藩が承知しなかったために起こった事件だろう。
ちなみに、現在日本各地の “特産品” と呼ばれるものの多くは、江戸時代の藩のチェとアセの結晶によるものが多い。逆に言えば、それほど各藩はこの十割自治に真剣に対処していたのである。いまでいう地方主権は、そうせざるを得ない一面も生んでいたのだ。しかし少なくとも藩はその状況を正しく認識し、いまでいう、
「中央ぶら下がりの精神」
は
微塵
(
みじん
)
もなかった。いきおい、各藩は藩境にきびしい関所を設け、それぞれの行政区域への出入りをきびしくした。そのために、約二百七十からなる藩はそれぞれの行政区域を、 「くに」 と呼ぶようになった。この遺風はいまも残っている。それはお盆や暮れにそれぞれの生まれ故郷へ戻ることを、
「くにに帰る」
ということからもわかる。このくにというのはあきらかに藩時代の呼称をいう。関所によって出入りをきびしく吟味される状況は必然的に”タテ社会” 生む”くに” という呼び方はそのあらわれだ。しかしこんの "くに" によって、それぞれの特性が生まれた。
「水は
方円
(
ほうえん
)
の
器
(
うつわ
)
に従う」
というのが、それぞれの藩が約二百七十の”方円の器” をつくった。そのための水である住民の気質も大げさにいえば二百七十種類できた。この方円の器すなわち、その行政区域を成立させている自然環境と、水であるそこの地域に住む住民の気質とが相まって、いわゆる 「地域特性」 を生んだ。企業でよく “C・I
(コーポレート・アイデンティティー)
” といっていいものがそれぞれ存在した。
明治になって、廃藩置県が実行され、いわゆる藩と藩の境目にあった垣根が取り去られた。そのため、各藩が
溜
(
た
)
めに溜めてきた特性がドッと噴出した。これが明治という時代を形づくるエネルギーである。したがって明治時代は、
「各藩が、江戸時代に蓄積してきた特性を噴出させるいわば ”お国自慢” の競演時代」 といっていいだろう。
著:童門 冬二
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