〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part T-Y』 〜 〜
評 伝 広 瀬 武 夫

2012/10/14 (日) 序 章 廣 瀬 中 佐 (三)

旅順口閉塞戦はこうした経緯で計画され、実行された。 「旅順は閉塞する以外ない」 。開戦前からそう主張していた一人が東郷の参謀の一人、有馬良橘りょうきつ 中佐である。連合艦隊の方針が決まる前から、作戦で使う汽船を手当てし、積んでいく爆薬なども用意していた。
一緒に準備に余念がなかったのが参謀、松村菊男きくお 大尉である。二人は、東郷の反対を押し切るために自ら閉塞実施部隊の指揮官になるつもりだった。作戦を立案した参謀自らが危地に飛び込むのだから、兵員の危険、損耗を嫌う東郷も許可せざるを得ないだろうという読みである。
しかし、有馬の思惑に狂いが生じた。旅順口の海戦で傷ついた三笠の幕僚の一人が松村だったのだ。松村は佐世保海軍病院に送られ、有馬は代わりの指揮官が必要になった。白羽の矢を立てたのが、海戦では三笠に続く戦艦・朝日の水雷長だった廣瀬である。廣瀬はかねてから、壮挙とも言える命がけのこの作戦に同心だった。声がかかるのを待っていたと言ってもいい。廣瀬が壮烈な戦死を遂げ、軍神として歴史に名を刻む事情は、いくつかの偶然でできていたのである。
旅順口閉塞作戦の最初は二月二十四日に行われた。出撃したのは、有馬が指揮する天津丸以下五隻、廣瀬は、天津丸に続く二番船・報国丸を指揮した。
結果から言うと、この作戦は巧を奏さなかった。強烈な探照灯に進路を誤った天津丸は途中で座礁。五番船の武州丸はロシアの砲弾を受けて舵機を破壊され、旅順口に達する前に爆沈した。四番船の武揚丸が武州丸の爆沈を見て、そこを港口と錯覚し、自沈する不手際もあった。
この混乱の中で、廣瀬率いる報国丸は砲撃されながらも港口を目指した。マストは折れ、操舵索や火薬への点火線も切られた満身創痍の状態だったという。自沈予定地に近い港口の灯台下付近に来たところで、飛来した砲弾が自沈用の火薬を誘爆。そこで沈没した。後続の仁川丸は沈没船らしき海底物が船底に接触し、航行不能に陥ってその場で爆沈した。港口を閉鎖するどころか、近くにまでたどり着けたのは報国丸一隻という戦果だった。
それでも第二次の作戦が立案された。東郷や秋山が懸念した兵員の消耗が思いがけなく少なかったからである。天津丸、報国丸、武揚丸の乗組員四十四人はカッターで退避し、港口の外まで並走していた水雷艇に収容された。仁川丸と武州丸の乗組員計二十九人は四日間、海上をさ迷った末に救助された。戦場から帰還できなかった兵員は一人だけ。負傷は四人だった。この損害の軽微さが、第二次作戦の遂行を決定した。

『評伝 廣瀬武夫』 著:安本 寿久 発行所:産経新聞出版 ヨ リ
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