〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part T-Y』 〜 〜
評 伝 広 瀬 武 夫

2012/10/13 (土) 序 章 廣 瀬 中 佐 (二)

秋山は日露戦争の勝敗を決定づけた日本海開戦を完勝に導き、 「知謀湧くが如し」 とまで称賛された作戦家である。その秋山が窮した末に、危険極まりない旅順口閉塞作戦に踏み切らざるを得なかった事情を見たい。
開戦わずか一か月半で、日本海軍は早くも難戦に陥っていた。日本が、この戦争を遂行する上で必要不可欠な条件は明白だった。ロシアの南下を阻止し、圧迫を排除するための作戦は中国東北部になる。そこへの兵員、物資の輸送のために、日本海から黄海にかけての制海権を握ることである。
そのために破らなければならない強敵がロシア太平洋艦隊だった。ウラジオストックと大連、旅順を根拠地とし、最大の拠点は旅順。そこにトン数十九万トンの艦隊の大半を収容していた。
当時の日本海軍の総トン数は約二十三万トンである。日清戦争後の三国干渉以来、臥薪嘗胆の思いで軍事力を増強した結果、新鋭艦も多く、決戦に持ち込めば勝機は決して小さくはなかった。
ただ、難しい条件があった。勝つにしてもその時期は出来るだけ早く、そして損害を可能な限り少なくした完勝が求められたのである。
大国ロシアは当時、欧州側にもバルチック艦隊と黒海艦隊を持っていた。日本側がなけなしの一セットで勝負に出るのに対して、ロシア側は、三セットの艦隊を運用できたのだ。その富欲を背景に立てた戦略が、バルチック艦隊の東洋遠征である。二つの艦隊を合わせることで、日本に倍する戦力で決戦したい。それがロシアの腹だった。
この戦略に従って、旅順艦隊は艦隊保全主義を取った。強固な要塞砲に守られた旅順港に座り込み、動かない。その艦隊をどうたたくか。東郷らが最初にぶつかった課題である。
連合艦隊が取った最初の作戦は、身軽な駆逐艦隊を旅順港に飛び込ませ、魚雷によってロシア艦隊を沈めるものだった。作戦着手は二月八日、宣戦布告の二日前である。ロシア側は油断しきっていて、港への迫入は比較的簡単だったが、日本側が無灯火での作戦にまだ不慣れだったこともあって、戦艦二隻、巡洋艦一隻に打撃を与えたに過ぎなかった。初戦で少なくとも五隻は沈めたかった秋山の思惑は早くも外れた。
連合艦隊は翌日、旅順に対して決戦を挑んだ。後に旅順口外の海戦と言われるものだ。旗艦・三笠を先頭に単縦陣で旅順に近づき、砲戦を開始した。たちまち三笠は三発の巨弾を受け、東郷の幕僚ら七人が負傷した。三笠に後続する参番艦、戦艦・富士も二弾を受けて砲術長が即死した。五番艦の戦艦・敷島は航海長以下十七人が負傷。殿しんがり の戦艦・初瀬も航海長以下十六人が死傷した。当時の艦砲は波の上下などにも左右されて正確性を欠く、それに対して陸上の要塞砲は、狙い通りに飛来する。軍艦は陸との砲戦では勝ち目がない。海戦は、そんな軍事上の常識を確認させるだけの結果に終わったのである。

『評伝 廣瀬武夫』 著:安本 寿久 発行所:産経新聞出版 ヨ リ
Next