〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part T-Y』 〜 〜
評 伝 広 瀬 武 夫

2012/10/13 (土) 序 章 廣 瀬 中 佐 (一)

「もし敵の砲火が激しければ退いて、再挙を図る方がよいな」
ストーブに手をかざし、股をあぶりつつ、秋山真之さねゆき が言った。連合艦隊司令長官の東郷平八郎の側にいる時でさえ、行儀を構わない男である。それが今は旗艦・三笠を離れ、民間から借り上げた汽船・福井丸の船中、目の前にいるのは親友の廣瀬武夫だ。言葉に何の飾りもなく、友情の念がこもっていた。
「お前はいつもそれだ」 と廣瀬は応じた。秋山が持参した饅頭をほおばり、こちらもしゃちこばったところが微塵もない。海軍兵学校入学が二期早いうえに、秋山とは明治元年生まれの同い年で、階級は共に少佐。水雷術練習尉官教程では同期だったし、海軍軍令部諜報課に一緒に配属された時機もある。言葉に遠慮はない。
「お前のような作戦かと違って、実戦部隊というのは生還を期しちゃ何も出来ない。どんどん往くよりほかはないのだ」
秋山の廣瀬訪問は明治三十七年三月二十五日のことである。日露戦争の開戦から一か月半が経っていた。その前日、廣瀬が指揮する福井丸をはじめとする四隻の輸送船には第二次の旅順口閉塞へいそく 作戦実施命令が下っていたが、悪天候のため待機が続いていたのである。
旅順港に閉じこもるロシア太平洋艦隊の主力を無力化するため、幅わずか二百七十三メートルの港口に民間から借り上げた老朽船を沈める作戦は、米西戦争の折に米海軍が決行したサンチヤゴ港閉塞作戦がモデルである。その様子を観戦武官としてつぶさに実見し、科学的なリポートを書いたのが秋山だった。 「何と言っても秋山は閉塞を知っている」 。海軍省はそれを評価し、日露戦争の開戦に当って、連合艦隊の参謀に抜擢したという説も根強い。
しかし、秋山はその作戦の無謀さもよく理解していた。秋山の見立てでは、ロシアが要塞化した旅順港は、サンチアゴ港の一千倍の火力で守られていた。夜陰に紛れて近づくとは言っても、深照灯もある時代である。そこへほぼ丸腰の汽船で飛び込み、自沈させて退却する。それは死にに行くようなものだと秋山は言い、 「運と兵員の死を前提に立てるような作戦なら、策戦家は不要である」 と言っていた。
旗艦・三笠で行われた、第一次の作戦を決定する会議でも、 「もし途中で見つけられて猛射を受けたら出直すということでどうか」 と提案した。それを言下に否定し、 「貴様の言うようなことでは、何度やっても成功しない」 と言い切ったのが廣瀬だったのだ。
「帰るか往くかは、状況によって各指揮官の独断に任せる」 。最後にそう結論を出した東郷も、この作戦にはあまり乗り気ではなかった。この日の秋山の訪問には、こうした経緯がある。

『評伝 廣瀬武夫』 著:安本 寿久 発行所:産経新聞出版 ヨ リ
Next