電文を受け取った時、廣瀬の心中では不満と喜びが交錯した。不満は異動の時期についてだ。廣瀬はその時期について、三十五年に夏か、早くても春にしてほしいと、かっての上司の野元綱明に希望していた。野元と廣瀬がそりが合わなかったことはすべに述べた。野元はこの年の四月に帰朝したため、ロシア公使館内では、滞在が長くロシア通の廣瀬がその後任になるのではないかと憶測されたが、代わりに赴任したのは酒井忠利だった。 大佐ながら、ロシア語を解せず、ロシアについての知識も乏しい人物であっる。何よりも徳川譜代大名、酒井家の一門であるため鷹揚で、仕事を万事部下任せにする。日本との緊張が高まっている時期のロシア駐在武官として、適役とはとても言えなかった。その人事を追いかけるように、廣瀬の希望を無視する帰朝命令が来たために、野元が何らかの働きかけをしたのではないかと疑ったのである。 喜びは、かねて希望していたシベリア視察の機会を、海軍が認めてくれたことである。三国干渉で事実上、遼東半島を手に入れたロシアは、シベリア鉄道の東進を急ピッチで進めていた。あと二年もあればウラジオストックまで直通するだろうと廣瀬は見ていた。ロシアがそこまで兵員、物資を自由に輸送できるようになれば、それこそ日本の脅威は抜き差しならないものになる。その進捗状況を自分の目で見て、帰国後に報告したいと考えていた希望が通ったのである。 |