〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part T-Y』 〜 〜
評 伝 広 瀬 武 夫

2012/10/18 (木) 第 六 章 竹 田 の 廣 瀬 家 (一)

廣瀬のロシア滞在は最終的には四年五ヶ月に及ぶ。その間に廣瀬は、郷里・竹田 (大分) に住む祖母ら肉親三人を失った。
最初の訃報は祖母の智満子だった。廣瀬の元に届いたのはペテルブルグに留学して四ヵ月後の明治三十一年一月二十日である。
八十一歳ろ高齢の智満子を案じて、廣瀬は訃報が届く直前に手紙を出していた。
(武夫が帰朝するまでは必ず御存命あるべしとのお約束、必ずお弱りあそばすことなく平常のごとくお元気にお暮らしあらんこと、くれぐれもお願い申し上げます)
入れ違いのように届いた訃報は父、重武からのもので、苦しむ様子なく、合掌して念仏を唱えながらの静かな往生だったから悲しむことはないと書かれていた。智満子が臨終際に、廣瀬に知らせれば、職分を放り投げて帰って来るかも知れぬ、それではお国に対して申し訳が立たぬ、と言い、病状を知らせることさえ禁じていたという。
智満子は、七歳になる直前に母、登久子を亡くした廣瀬にとって、母親代わりであり、父親の単身赴任が続いた少年期の親そのものだった。
(吾ヲ生ムは父母、吾を育ムハ祖母、祖母八十ノ賀特ニ赤条々、五尺六寸ノ一男児ヲ写出シテ膝下ノ一笑ニ供ス)
測量艦・岩城の航海長だった明治二十九年五月、廣瀬は褌一つ (パンツにも見える) で撮影した写真の裏にこう書き、智満子に送っている。海軍大尉として正装した写真も撮影し、その裏にはこう記した。
(祖母公ハ八十ノ寿宴頑孫武夫外ニ在リ、茲ニ撮影ヲ呈シ自身ヲ奉祝スルニ代フ)
廣瀬は、元気な姿と立派な姿を贈ることが、智満子が何よりも喜ぶと考えたのである。これもまた、稚気愛すべし、と言うべき廣瀬の一面であろう。
『評伝 廣瀬武夫』 著:安本 寿久 発行所:産経新聞出版 ヨ リ
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