〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part T-Y』 〜 〜
評 伝 広 瀬 武 夫

2012/10/18 (木) 第 六 章 竹 田 の 廣 瀬 家 (二)

しおんな祖母だっただけに、訃報を受け取った廣瀬は食事も取れなくなり、数日間部屋に閉じこもった。ロシア駐在武官、八代六郎の自宅に同居していたころのことで、廣瀬が十日ばかりも泣き明かしたために、ついに眼病になったと、八代は書き残している。余りの悲嘆ぶりに驚き、同情しながらも八代は忠告した。その文言は次のようだったと記している。

(君には君主あり国家あり父あるに非ずや。悲嘆はさる事ながら、眼病となり身を損なうが如きは、祖母君の喜びたまう事にてもあらざるべし)
廣瀬は夢から覚めたようになり、 「本当にそうです、そうです」 と答え、ようやく快活を取り戻したという。 (眼病も程なく治したり) 。八代の記述である。
智満子の死から約二年後の明治三十三年一月二十日には、異母弟の吉夫が亡くなった。二十二歳の若さだった。吉夫は一時、廣瀬が東京に引き取り、勉強させたことがある。学問は出来たが、病弱で、廣瀬がロシアに留学した後は一時、長兄の勝比呂の元で勉学を続けたが、その後は郷里に帰って療養していた。
廣瀬の父、重武には長男・勝比呂、次男・武夫をはじめ四男二女がいたが、廣瀬にとってはすぐ下の弟になる三男・潔夫も明治三十年七月に病没している。二十七歳の若さだった。平成の感覚からすると、若死にというものが珍しくないのが明治期であり、そんな時代だからこそ、廣瀬の智満子への贈り物が意味深かったのである。
廣瀬の父、重武が亡くなったのは吉夫の死から一年三ヶ月後である。享年六十六。それ以前から、体調が思わしくないことは勝比呂の手紙などで知ってはいた。
(御老衰に傾かれしに非ざるかと、頗る懸念の至りに堪えず候。ただただ御摂養の上、兄勝比呂がアドミラル (提督) 、武夫が艦長にて目覚ましき働きをなすまでは、少なくとも当時の御健康を保たれんことを希望の至りに堪えず候)
重武の死が伝わる一ヶ月前に、廣瀬が重武に書いた手紙である。幕末に尊王の志士として活躍した重武には、兄弟が海軍で出世し、国の役に立っていることが誇りであった。文面には、それを知悉しての激励が込められている。
廣瀬はこの前年、少佐に昇進した。海軍兵学校の同期に比べれば、幾分遅い昇進だが、重武の祝いの手紙は、ただただ体に気をつけ、お国の為に励めと書いてあった。晩年の重武の心境、人柄とはそういうものであった。
『評伝 廣瀬武夫』 著:安本 寿久 発行所:産経新聞出版 ヨ リ
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