廣瀬のロシアへの出発は明治三十年八月八日である。フランス船のサラセン号に乗って横浜を出港した。 十三日上海着。二十一日サイゴン着。ひたすら西を目指す船旅はさながら、欧米列強の租借地、植民地を巡る旅でもあった。 |
英米仏ノ租界 城街一区ヲ劃ス 道ヲ喝シテ車ヲ駆クルノ客 皆コレ赤髯奴ナリ |
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上海で欧米人がわが物顔で振舞う様に、廣瀬は憤慨した。 |
嘆息ス東洋ノ武揚ラザルコトヲ 西人到ルトコロ鴟張ヲホシイママニス 安南マタフランス国ニ属シ 千里ノ江山三色章ノミ |
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サイゴンでは、フランスの支配下に置かれて三色旗
(トリコロール) が至るところに飜るベトナムの様子を嘆いた。東洋の武が振るわないために、この支配が行われていると見るあたりが、慶応四年 (明治元年)
生まれの廣瀬らしい。世界は幕末期以上に、弱肉強食の嵐が吹き荒れていた。 |
万国ニ公法ナシ 人間ハ力コレ権ナリ 日東ヨリ西ニ向イテ去レバ 到ルトコロ皆然リ |
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これは、アラビア半島南西端の英国領アデンでの慨嘆である。アジアの国々を武力で支配する欧米列強。アジア人を守るのは法ではなく、頼るべきは自らの武力しかない。そんな真実を肌で知る旅でもあった。
九月十八日、フランス・マルセイユ着。ここからは陸路である。パリでは駐在武官の伊東義五郎大佐の自宅で二泊した。伊東は海軍きってのフランス通として知られ、妻はマリー・ルイズ・フラパーズ。フランス人女性である。欧米人のアジアへの仕打ちに憤っていた廣瀬には、この妻が驚きだった。さらに驚いたことは、このマリー
(日本名は満里子といった) 夫人が日本料理で歓待してくれたことである。味は日本料理そのもので、甲斐甲斐しく世話を焼いてくれる様子も日本の女性と変わりない。レディファーストを強要する傲慢さを、欧米女性の特徴と見ていた廣瀬には、不思議な光景だった。初めて接する欧米は驚きに満ちていた。 ドイツ・ベルリンでも二泊した。ここでは兄嫁
(勝比呂の妻) 、春江の姉婿でドイツ留学中の医学博士、山形仲芸の下宿に世話になった。山形は遠来の廣瀬に、鰻の蒲焼を馳走してくれた。あいさつに訪れた日本公使館では日本料理と日本酒が出た。 廣瀬の記録には、たいてい食事のことが触れられていて、それが当時の在外日本人の暮らしぶりや日本人の望郷感などを教えてくれる史料になる。健啖家・廣瀬の思いがけない文化的貢献とでも言おうか。 次の目的地はいよいよ、ロシア・ペテルブルグである。ドイツ留学の林三子雄ともベルリンで別れ、一人の旅になる。 独露国境で乗り換えたロシアの列車は、ドイツの列車に比べて不潔だった。食堂車がなく、駅の停車時間に食事を取る。それだけでも食いしん坊の廣瀬には気が重い。 曇りがちの空もベルリンやパリとは違って見えた。ペテルブルグはフィンランド湾頭に位置するロシアの首都である。北の海辺に向かっているのだから、空模様の変化は当然のことなのだが、大国ながら欧米列強の中に入れば、先進国とは言い難いロシアの当時の立ち位置を象徴するような風景であり、また廣瀬の心情だったのだろう。 |