〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part T-Y』 〜 〜
評 伝 広 瀬 武 夫

2012/10/17 (水) 第 四 章 日 清 戦 争 (五)

余談ながら、この将領 (艦長) と参謀という組み合わせについて考えてみたい。日露戦争を戦った日本軍は、陸軍、海軍ともに、この二者が見事なまでの役割分担をしていた。
陸軍の満州軍総司令官を務めた大山厳だが、その座は元帥の山県有朋が強く望んでいた。しかし、度量の点で問題があると、大本営参謀本部次長の児玉源太郎が言い出し、様々に運動して大山を担ぎ出した。その経緯を大山は、拝謁した明治天皇からこんな言葉で聞いている。
「山県もいいのだが、しかし鋭すぎて、細かいことまで口出しするので諸将が喜ばぬようだ。そこへいくと、お前ならうるさくなくていい、ということで、そういう次第でお前に決まった」
「すると、この大山はぼんやりしているから総司令官にちょうどよい、というわけでございますか」
「まあ、そんなところだろう」
このやりとりは 『坂の上の雲』 でも紹介されているが、実際に大山は、満州の戦場で、その大きさを遺憾なく発揮した。作戦は総参謀長となった小島源太郎以下の部下に任せ切って総司令官室にこもり、時折 「またどこかでゆっさ (戦さ) か」 などと言って出て来て、殺気立つ総司令部の空気を和らげた。
対照的に児玉は、日露戦争の陸軍作戦を統裁できる人物は児玉以外になし、と言われた切れ者である。切れ者だけに、決断が早く、堪え性がない。難戦に陥った旅順攻略戦で、親友の乃木希典の苦労を見るに忍べず、総司令部を抜け出して野木が率いる第三軍の指揮を執ったりもした。
第三軍は、児玉の大胆な戦術転換で要衝の二〇三高地を奪い、それがロシア太平洋艦隊の壊滅、旅順陥落へとつながっていく。作戦家・児玉の面目躍如というところだが、注目したいのは、それまでの無謀とも言える三回の総攻撃に果敢に将兵を向かわせた乃木の統率力である。乃木は、作戦一切を参謀長の伊地知幸介らに任せ切りにする一方で、無私で禁欲的な将軍として将兵の尊敬を得ていた。この統率力があって初めて、児玉の非常指揮が有効に機能したのである。
連合艦隊司令長官の東郷平八郎も、部下を信じて任せるという点では大山同様の薩摩ぶりを発揮した。東郷が作戦を任せたのは参謀長の島村速雄だったが、島村は参謀の一人に秋山が選ばれたことを喜び、すべてを秋山に任せた。作戦は天才がやるべきもので、階級や地位は関係ないという考えだったという。ちなみに島村は当時、大佐で、秋山は少佐である。秋山が作戦立案に没頭し、勝手に休憩を取ったりして東郷が渋面をつくると、 「あれは天才ですから」 とかばうことも忘れなかった。

『評伝 廣瀬武夫』 著:安本 寿久 発行所:産経新聞出版 ヨ リ
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