〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part T-Y』 〜 〜
評 伝 広 瀬 武 夫

2012/10/17 (水) 第 三 章 青 年 士 官 (四)

廣瀬が再び乗り込んだ比叡は三百六十一人乗り組みである。艦長、副長以下、分隊長、航海長、砲術長、水雷長、分隊長心得、分隊士、航海士が士官である。総勢十三人。最も階級の低い少尉は廣瀬をはじめ六人、海軍兵学校の卒業生がいかにエリートコースを歩み、また期待されているかがわかる。
明治二十四年九月二十日、比叡は少尉候補生六十一人を乗せて東京・品川港を出港した。帰港予定は翌年四月十日。全航程一万四千二百海里、二百四日。豪州方面への航海は廣瀬にとって、指導者としての月日になる。この記録を廣瀬は、日記体の 『航南私記』 として残している。自分のための覚書であり、家人への航海日誌として書かれている為に、和文に漢文が混じり、時には解説文のような記述もあり、廣瀬の文才、詩才がみなぎった詩文集としても評価されている。
この 「航南私記』 では未曽有の台風に襲われたこと、初めての島での習俗への驚きなどが詳細に書き込まれていて、廣瀬研究の文献としても興味が深いが、筆者が注目するのは、外国や外国人に対する廣瀬の心の持ちようがこの航海中に微妙に変化する様が見られる点である。
例えば十一月二十九日、豪州ブリスベーン碇泊中のことである。その日は日曜で、比叡は地元住民らに艦内を公開した。希望者は汽船四隻ばかりでやって来て、数百人が上下甲板にあふれ、ここに集まり、あれを尋ね、 「実に煩いことになった」 という。
交際上手で、英語の練習にもなるとも考える若い士官や少尉候補生は進んで話しかけ、艦内の案内役を買って出た。住民らは艦内の清潔なことや、よう整頓されていることなどを誉めたが、西洋人が一人も乗っていないことに驚き、「そうは言っても、艦長は西洋人だろう」 とか 「機関長は西洋人ではないか」 としつこく尋ねた。 「全部、日本人だ」 と答えると、目をむくように感心したという。
これが廣瀬には気に入らなかった。明治維新後の日本がどんなに開化しているか、日本の海軍がどんなに進歩しているかを全く知らない西洋人に反発を覚えた。ちなみにこの時期の豪州はまだ、英国の属領である。それだけに、世界の潮流に対する鈍さのようなものがあったのかも知れないが、英国流の海軍教育を受け、世界に乗り出した廣瀬には癪に障ることだったのだろう。
この比叡の公開は地元の新聞でも報道された。その記事がまた、廣瀬の癪に障った。 「英語がわかりますか」 と問われた士官らが 「どうやら」 「ほんの少し」 などと答えながら、いざ話してみると流暢なので、 「感服の他なし」 ろ記事には書かれていた。
廣瀬らは、海軍兵学校で三年以上、留学の必要なしと言われるほどに英語漬けの教育を受けてきたのである。それが英語を知らぬと思われ、知っていれば感服されるという日本とは何なのか。日本を見くびる欧米とは何なのか。
(いつか彼の揚人をして、日本語を知らぬか、知らざるは恥よと思わしむる時なからんや。慨一慨 (嘆きまた嘆くの意)
父親の代からの尊皇攘夷の気持がまた、盛んに燃えた廣瀬であったのだろう。
『評伝 廣瀬武夫』 著:安本 寿久 発行所:産経新聞出版 ヨ リ
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