〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part T-Y』 〜 〜
評 伝 広 瀬 武 夫

2012/10/17 (水) 第 三 章 青 年 士 官 (三)

帰国後の廣瀬は軍艦・海門の乗り組みを命じられた。柔道の紅白試合で異郷の五人勝ち抜きを演じたのはこのころである。
明治二十四年一月、少尉任官して、海門の分隊士になった。海軍士官として、いよいよ出発点に立ったのだ。海門の任務は主に、測量と近海警備だった。
半年後、再び比叡乗艦になった。比叡は横須賀や静岡・清水に碇泊することが多かった。この清水碇泊時に、廣瀬ら若い士官が清水次郎長が営む船宿 「末廣」 に足繁く通った逸話が 『廣瀬武夫─旅順に散った 「海のサムライ」』 に紹介されている。廣瀬の最期には、この次郎長から学んだ教えが色濃く影響していると思われるので、概略を紹介したい。
東海道一の侠客として知られる次郎長だが、幕末には山岡鉄舟の護衛役を勤めたりして幕府びいきの一面を持つ。清水沖での幕府軍と官軍との戦いで、戦死した幕府軍兵士の多数の遺体を私費で引き揚げ、埋葬した事もある。官軍から文句が出ると、 「ふざけちゃいけねえよ。仏様にゃ幕府軍も官軍もねえんだ」 と追い返したと言う。
晩年には富士の裾野を開墾し、英語学校や海運会社を設立した。船宿を営んだのはその後で、廣瀬が知り合ったのは次郎長七十歳の時だという。
「おめえさんたちゃ、この年寄りに何が聞きてえんだ」
そう言う次郎長の頭髪とまつ毛は白く、既に歯も抜け落ちていた。それでも紋付の羽織を端然と着こなし、眼光鋭く、腹の底から搾り出すような声だった。
「渡世人も軍人も、戦をするのが仕事です。それで・・・・、戦場に臨んでの腹づもりというか、度胸というか、そのあたりをぜひ、親分さんに聞かせてもらいたいのです」
「バカ抜かしちゃいけねえよ。俺たちの出入りは刃物沙汰だ。けんど、おめえさんたちの戦は大砲じゃねえか。同じ戦でも格が違うずら」
「それでも、腹の据え方は同じだと思いますが」
「そりゃ、ケース・バイ・ケースずら」
「はあ? ケース・バイ・ケース、ですか」
いきなり思いがけない英語が飛び出して戸惑っている廣瀬らに、次郎長は言った。
「場数ってことよ。度胸なんて初めから据わるもんじゃねえ。俺も初めての出入りのときゃ、ふぐり (睾丸) が縮みあがったずら。場数さえこなしゃ、だんだん腹が据わるもんさ」
「だからよ、戦を前にしたときゃ、自分でおのれのふぐりをつかんでみるこった。ふぐりが縮まってりゃ負け戦、だらっと垂れてりゃ勝ち戦だ。これだけは間違いねえぜ」
「もし縮まっているときは、どうすればいいんです」
「そりゃ、深い呼吸をしながら、おのれでふぐりをゆっくりもむずら。そうすりゃ、腹も据わってくるってもんだ」
これは面白いと言う士官たちが多かったと言うから、どこか牧歌的で、書生臭さが抜けないのが当時の若手士官というものらしい。その彼らに次郎長は、戦国時代からの城攻めの常法まで教えている。
「それにな、戦ってやつぁ、敵をとことん追い詰めちゃならねえ。敵にも一分の逃げ道を与えやんなよ。それが人情ってもんだ」
「敵を殲滅してはいけませんか」
「軍艦から大砲打ち込みゃ、確かに一分の逃げ道もねえや。けんどよ、窮鼠猫を噛むっていうじゃねえか。追い詰められた敵は何するか知れたもんじゃねえから、怖いってことよ」
後の旅順口閉塞戦で、砲銃弾の中を報国丸から退避する際、廣瀬はこの 「ふぐりの指導」 で部下を激励し、修羅場を脱出している。
『評伝 廣瀬武夫』 著:安本 寿久 発行所:産経新聞出版 ヨ リ
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