〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part T-Y』 〜 〜
評 伝 広 瀬 武 夫

2012/10/17 (水) 第 三 章 青 年 士 官 (二)

反対に、気に入らなかったのが舞踏会である。比叡は当時の慣例に従って、寄港中の十月三日、艦上で舞踏会を開いたが、ホスト側でありながら、一人憮然として、その様子を眺めていたらしい。
(世間の交際とはいえ、馬鹿げ切ったることと存じ候。彼の実を学ばず華を学ぶ軽薄なる所行、慨嘆に堪えず候)
とりわけ男女が踊るダンスが、文明開化の猿まねのようで、廣瀬の美意識にそぐわなかった。廣瀬が嫌々ながらダンスを習い、その効用やら楽しさやらを理解するようになるには、その後のロシア留学まで待たねばならない。
十月十七日、ホノルル出航。赤道を通過して南半球に入り、十一月十六日、サモア群島チュチュイラ島の南東岸バゴバゴ港に入港した。
ここでは、その島の辺鄙なことと、あまりに違う習俗に驚いている。
まず第一に、補給できる食物がほとんどなかった。島にあるのは芋かバナナ、それに橙の仲間のようなものだけ。それを売る島民の肌は赤黒く、頭髪を針のように立て、衣服といえば布片か草を編んだものを腹部にまとっているだけだった。
家屋は数本の柱を立てた上を、椰子の葉で葺いた屋根で覆い、土間には砂利が敷き詰められていた。住民はそこに、むしろのようなものを広げて暮すが、豚や鶏、犬も同居であるために、廣瀬には不潔感が気になった。
食事は椰子の実、バナナ、パイナップルなど、耕作を全くしないために、すべては天産物に頼っていた。
この島での滞在は十一日間だった。その後、比叡は英領レビュカ島、グアム島などをめぐって明治二十三年二月二十二日に東京・品川港に帰着、全航程は一万二千二百七十二海里、航海日数百二十一日、碇泊日数七十三日、合計百九十四日の航海だった。その間に、廣瀬の観察眼や文才も大きく育ったのである。
『評伝 廣瀬武夫』 著:安本 寿久 発行所:産経新聞出版 ヨ リ
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