〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part T-Y』 〜 〜
評 伝 広 瀬 武 夫

2012/10/17 (水) 第 三 章 青 年 士 官 (一)

海軍兵学校を卒業した廣瀬が始めて乗り組んだ軍艦。比叡は明治十一年、英国で建造された。二千三百トンの機帆船。風の都合で帆を張って走ったり、蒸気機関を使ったりする船のことだ。そのために三本のマストと一本の煙突があった。再興速力は十三ノット。
黒船の襲来に驚いて始まった幕末の混乱、その末の明治維新からまだ二十二年。日本海軍にはまだ、汽船の艦隊をそろえるだけの実力はなかったのだ。
廣瀬が乗り組みを命じられた明治二十二年四月二十日、比叡は修理中だった。実際に乗艦したのは修理が完成した六月十四日。初訓練の為に遠洋航海に出たのはさらに二ヵ月後の八月十三日。軍艦・金剛と一緒の航海だった。
最初の寄港地はハワイ・ホノルル。入港は九月十七日である。
(この有様にて肥えたならば、帰国のみぎりは二十貫目のも相成らんかと、かえって案じ入り相当次第に御座候。呵々)
三十六日間の航海で一貫七百目、六キロ以上も太ったことを家族に伝えている一文だ。初めての遠洋航海にも廣瀬の旺盛な食欲は衰えなかっららしい。
この航海中に、廣瀬の率先垂範がさらに磨きがかかった。甲板掃除を進んで始めるのは日常茶飯事。時には便器に手を突っ込んでごしごしやった。少尉候補生が、と水兵たちは驚いたが、 「自分の出したものは自分で始末する。当たり前だ」 と平然としていた。
上陸して最初の驚きは、島民が裸足で歩いている事だった。それも炎天下の焼けるような地面を平気で歩き回っている。聞けば、足の裏が慣れて硬く、岩道でも砂礫の上でも平気だという。
そう話す住民は皆、体格が日本人と比較にならないほど大きい。
(たいてい六尺の大男で、腰の周りは二抱えほどもあり、肥え太って逞しい様はさながら仁王を思わせる立ち姿である)

その彼らが大抵は馬か馬車に乗っていた。歩いているのはよくよくの者か、自分たち日本人ぐらいだった。それならばと馬を所望したが、一時間一ドル。馬車も鉄道馬車も当時の日本人には高価すぎた。
初めて食べた食物として、廣瀬はバナナに興味を示している。おそらくは、地元にありふれた食物で安価だったことが気に入った一因であろう。
最初はまくわ瓜に味が似ていると思った。すぐ後に、少し水飴を加えたような変わった味に思えた。しばらくは匂いも味も舌ざわりも気味が悪かったが、二、三度食するうちに気に入り、一度に十本以上も食べるようになった。健啖家・廣瀬の面目躍如のような日記が残っている。

『評伝 廣瀬武夫』 著:安本 寿久 発行所:産経新聞出版 ヨ リ
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