明治二十一年十二月二十一日、廣瀬は軍艦・天龍に搭乗しての航海演習を命じられた。演習を命じられた生徒は三十八人。二十九日まで九日間の予定で、当直と副直士官としての勤務のほか、水兵と共に甲板洗方や機関部の仕事までこなした。甲板を洗う作業は水兵につきものの辛い仕事だが、廣瀬はこれが好きで、甲板士官になってからも率先して行い、そんなところも乗る艦すべてで廣瀬が部下に慕われる一因になる。 演習の航路は江田島から門司、愛媛・宇和島を経て兵庫港に至り、その後江田島に帰還するものである。ここ航路の途中で、廣瀬は始めて外国船を目にする。ロシアの軍艦・ラスポニックで、廣瀬のその後のロシアとの因縁を考えると、この時の出会いは運命的ですらある。場所は下関。両艦の乗組員は互いに訪問しあった。 |
(同艦は大きさ天龍に等しく、外観は甚だ古び樽如くにて、天龍に劣るとも優る事まき有様と存じ候に、ある士官より伝聞する所によれば、内部の装置整備驚くに堪えたるほどにて、口径大の大砲あり、電気燈あり、水雷発射管三個を有せりともことにて、見かけによらぬ恐るべき艦と存じ候) |
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そのくせ、艦に備えたボートには何の飾りもなく、天龍の乗員を迎える天幕なども張らず、水兵の服装は実に無造作だと廣瀬は書いている。天龍とは比較にならないほど掃除も行き届いていなかった。 |
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そのために天龍の乗員は手をたたいて笑ったが、廣瀬は笑えなかった。戦力としての内部を知り、実地訓練もしっかり積んでいそうな様子に警戒心を持ったからである。 |
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廣瀬は後のロシア留学と勤務で、ロシアの実情をこと細かく調査分析するが、その能力の兆しのようなものを感じる手紙である。 天龍の江田島帰港は二十九日午後三時。明治二十一年はまもなく暮れ、廣瀬の海軍兵学校在学も残すところ、あと三ヶ月余りとなった。 明治二十二年四月二十日。広瀬たちの卒業式は、海軍大臣・西郷従道臨席のもとで行われた。 卒業生は成績順に名前を呼ばれる。呼ばれれば前に進み出て、西郷に一礼し、続いて校長に敬礼して後、卒業証書を手渡される。 一番に名前を呼ばれたのは財部である。つまりはハンモックナンバーは、廣瀬の親友が勝ち得たのだ。廣瀬は六十四番。卒業生八十人中の成績であるうえに、甲号生徒
(機関生徒) を除いた一号生徒六十四人中でもこの順位であった。 |
(頑児は成績こそ六十四。六十三人待ち続けたる意中の苦。多年不勉強の報いとは言いながら、しばしば家兄の奨励するにもかかわらず、ようやく及第することを得しは、実に慙愧の至りに堪えざりき) |
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父・重武への手紙にはいつものユーモアがある。この明るさが廣瀬の終生変らない魅力であった。 |