しかしながら、廣瀬の鍛錬は、すぐに始まった。その頃の逸話が
『廣瀬武夫─旅順に散った 「海のサムライ」 』 にこんな具合に描かれている。 江田島に移転した海軍兵学校の校長、有地
品之允しなのじょう は、これを機に海軍士官として体力、精神力を培う新学科を模索していた。ある日、練習艦の上甲板で二人の生徒が、刺子織りの胴衣を着けて取っ組み合いをしているのを見た。 「また喧嘩か。だれか止めて来い」 校長室の窓から怒鳴ると、副官の八代六郎大尉が答えた。 「校長、荒れは喧嘩ではございません」 「ほう、喧嘩ではないのか。では何をしておる」 「柔道でございます」 有地は、講道館の名前は知っていた。が、実際の柔道は見たことがなかった。投げ技の見事さに見とれ、あの二人は誰かと八代に尋ねた。 「あれは柔道バカと呼ばれております。十五期の廣瀬武夫、相手は同期の財部彪であります」 「廣瀬?
あの肋膜炎の廣瀬か。随分、元気になりおったようじゃが。そうか、廣瀬は柔道バカか」 「はい、攻玉社のころから講道館に入門しておりまして、暇があれば財部といつもああやっております」 攻玉社は海軍兵学校の予備校的な存在で、廣瀬は山県小太郎の家に寄寓しながら通っていた。また、八代は海兵八期で、廣瀬の七期先輩になる。後に廣瀬がロシア留学を命じられた際、ロシア駐在武官として大変面倒を見てもらう関係になるが、八代としてはこの廣瀬在学中から、面白い男がいるとでも思っていたのだろう。 有地は少し考え、柔道と嘉納治五郎について調べるよう、八代に命じた。 嘉納は摂津
(兵庫県) 出身で、東京帝国大学に入って柔術を学んだ。講道館を開いた後は学習院の教頭や第五高等学校
(熊本) の校長などを歴任している。教育者でもあることが有地の眼鏡にかなった。 嘉納に直接面会した有地はまず、柔道を修めた理由を尋ねたという。虚弱ゆえに、強力な者に痛めつけられて悔しい思いをしていたこと、非力な者でも強力に勝てる技として柔術を学んだことなどを、嘉納は話した。 面談は有地を満足させるものだった。早々に海軍省に対して、柔道を海軍兵学校の正課とするよう意見具申した。海軍省は嘉納と協議の上、江田島に五百畳の道場二棟を建設し、講道館江田島分場ろして、柔道を正課とした。 |