〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part T-Y』 〜 〜
評 伝 広 瀬 武 夫

2012/10/26 (金) 第 十二 章 軍 神 余 話 (三)

余談になるが、杉野の生存説が伝わり、日本中が大騒ぎになった昭和二十一年十二月のことを記したい。
発端は新聞記事だった。<杉野兵曹長は生きている 近く帰国するという夢のような話> の見出しで、ソ連抑留中に杉野に会ったという元日本将校の話を、佐世保に復員した軍属が語ったという体裁を取っている。そこで紹介された杉野の経験とは概ね、次のようなものだ。
(私は旅順に向かう途中、砲弾のために福井丸のデッキから跳ね飛ばされ、漂流しているうちに翌日、中国人の小船に救われた。健康が回復したころには戦争は終わっていた。帰りたかったが、内地ではあまりに英雄扱いしているので帰ることがならず、中国人になりきって生活していた。時代が変わった今なら帰れると思って出てきた)
そう語りながら収容所内で日本人の世話をしていた男は、頭髪がなく、顔は温和で、田舎のおじいさんを思わせた。本人は今七十六歳だと言った、と伝聞の形で書いてある。
この記事には続報があって、記者が杉野の里に飛び、帰農していた修一にインタビューしている。
「信じられませんね」 そう言った修一は理路整然と言葉を継いだ。杉野が行方不明になったのが明治三十七年三月二十七日で、当時三十八歳だったから、もし生きていれば七十九歳であり、七十六というのはおかしいと。
その話しぶりはいかにも海軍士官である。
杉野生存説は、昭和五十七年にも再燃している。雑誌 「現代」 に 『生きていた軍神』 として掲載されたもので、内容は概ね、こうである・
(杉野は助かって釜山まで戻り、自分が生きている事を故郷に電報で知らせたところ、親族が釜山まで出かけて来て、軍神となっている今、日本に帰っても居場所がないと涙を流して説得した。このために杉野は悄然として満州へ去った)
二つのストーリーを合わせれば、杉野は日本で、軍神として崇められたことで帰国できず、ついには中国大陸で人生を終えたことになる。真偽のほどは別にして、軍神とされた家族の心情はあるいは、このようはものだったのかも知れない。
『評伝 廣瀬武夫』 著:安本 寿久 発行所:産経新聞出版 ヨ リ
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