〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part T-Y』 〜 〜
評 伝 広 瀬 武 夫

2012/10/25 (木) 第 十一 章 軍 神 (三)

日本では葬儀の後も、廣瀬への同乗や人気は衰えなかった。四月十八日、廣瀬の戦死からわずか三週間余後には特集雑誌 『日露戦争実記 「軍神廣瀬中佐」 臨時増刊第九編』 が、博文館から発行された。筆者の手元には昭和四十八年に発行された復刻版があるが、巻頭で二十三ページにわたって、写真グラフを掲載。廣瀬や閉塞隊員の写真ばかりでなく、廣瀬の父、重武の遺影や姪の馨子の写真まで掲載している。
廣瀬に関しては少尉候補生時代から少尉、大尉、少佐と、時代ごとの写真も載せ、シベリア横断時のものや珍しい礼服姿も掲載している。私信や電文の写真まであるから、短時日でよくもここまで取材したと感心する出来栄えだ。
本文は百二十八ページ。竹田での出生から戦死に至るまで、漢文調の残る文体で書かれているて、現代人が読むとなかなか難解だが、すべてに漢字にかなが振ってある。子供を含めて、広く国民に読ませようという狙いが見える。
特集の後半には、廣瀬を称えた短歌の数々とともに、巌谷小波の軍歌 「廣瀬中佐」 が載っている。巌谷は当時の流行童話作家で、尋常小学校唱歌の 「廣瀬中佐」 が生まれる大正元年より八年も前のことだ。廣瀬を歌にして、後世に伝えたいという気持がすでに、国民に広くあったのだろう。
参考までに、巌谷の歌を一部紹介する。
神州男児数あれど男児の内の真男児
世界に示す鑑とは廣瀬中佐が事ならん

己に一たび死を期して旅順封鎖に向ひしも
事意に充らぬ無念さは再び結ぶ決死隊
こうした調子で十二番まであり、廣瀬の最期が美々しく描かれている。
この歌に比べれば、唱歌の 「廣瀬中佐」 は写実的で、それだけに情景が目に浮かびやすく、歌いやすい。子供に歌わせるという目的もあったために、今でも歌える人が多いのではないか。歌詞の一番は序章で紹介したので、二番以降を紹介しよう。
船内隈なく尋ぬる三度
呼べど答へず捜せど見えず
船は次第に波間に沈み
敵弾いよいよあたりに繁し

今はとボートに移れる中佐
飛び来る弾丸に忽ち失せて
旅順港外恨みぞ深き
軍神廣瀬とその名残れど
廣瀬を称賛する教科書が現れたのは大正四年である。尋常小学校の三、四年用の修身に、 「やくそくを守れ」 という題で載っている。
(廣瀬武夫がロシアに行くとき、ある子供にロシアの切手をお土産に上げようと約束した。帰りは氷のシベリアをソリで帰ることになり、危険が予想された。 「もし自分が死んだならばどんなにがっかりするだろう」 と出発前、ロシアの切手を買い、兄のもとに送っておいた)
勇敢で誠実。この話には廣瀬の人柄が凝縮されている。軍国主義の臭いがないのが、さらにいい。
『評伝 廣瀬武夫』 著:安本 寿久 発行所:産経新聞出版 ヨ リ
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