〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part T-X』 〜 〜
中 段 に 見 る 暦 屋 物 語

2012/10/09 (火) 身 の 上 の 立 聞 き (二)

物語ものがたり せしすゑ を聞くに、さてこそ、我が事申し出し、 「さてもさても、茂右衛門めは、ならびなき美人を盗み、惜しからぬ命、死んでも果報くわほう 」 といへば、 「いかにもいかにも、一生の思ひ出」 といふもあり。また、分別らしき人のいへるは、 「この茂右衛門め、人間たる者の風上かざうへ にも置くやつにはあらず。主人夫妻をたぶらかし、かれこれためしなき悪人」 と、義理をつめてそし りける。茂右衛門立聞たちぎ きして、 「たしか今のは、大文字だいもんじ 屋の喜介きすけ めが声なり。哀れを知らず、憎さげに物をいひ捨てつるやつかな。おのれには、あづか り手形にして銀八十目の取替とりかへ あり。今の代わりに首おさへても取るべし」 と、歯ぎしめして立ちけれども、世にかくす身の是非ぜひ なく、無念の堪忍かんにん するうちに、又ひとりのいへるは、 「茂右衛門は今に死なずに、どこぞ伊勢のあたりに、おさん殿をつれて居るといの。よい事をそをる」 と語る。
これを聞くと、身にふるひ出てにはか に寒く、足ばやに立退たちの き、三条の旅籠屋はたごや に宿借りて、水風呂すいふろ にも入らず休みけるに、十七夜代待だいまち の通りしに、十二灯を包みて、 「わが身の事よ、末々知れぬやうに」 と祈りける。その身の横しま、愛宕様あたごさま も何として助け給ふべし。

色々話しているのを末まで聞くと、果たして自分の事を言い出した。 「さてさて、茂右衛門めは、並びない美人を盗み出し、惜しくもない命を捨てたが、あれならば死んでもしあわせというものじゃ」 と一人が言うと、 「いかにも、いかにも、人間一生の思い出じゃ」 と言う者もいる。また、分別くさい者が言うには、 「この茂右衛門めは人間たる者の風上にも置けぬやちじゃ。ご主人の夫妻をだまし、あれこれ考えてもためしのない悪人じゃ」 と、道理をたてに取ってののしった。茂右衛門は立聞きして、 「たしか今のは大文字屋だいもんじや の喜介めの声だ。情けを知らずに、憎たらしいことを言い散らすやつじゃな。貴様にはちゃんと借用証書を入れさせて、銀八十匁の貸しがある。今の悪口のかわりに、首を押さえても取り返してやるぞ」 と、歯ぎしりして立っていたが、世を忍ぶ身の仕方なく、無念ながら我慢しているうちに、また一人の言う事には、 「茂右衛門は今も死なずに、どこか伊勢のあた りに、おさん殿を連れているということじゃ。うまい事をしている」 と話した。
この言葉を聞くと身震いして、急に寒くなり、大急ぎで立退いて、三条の旅籠はたご 屋に宿を借り、風呂にも入らず、すぐ寝てしまったが、十七夜代待だいまち が通ったので、十二文のと燈明代を手向たむ け、 「私の身の上が、末々まで人に知れぬようみ」 と祈った事であった。その身の不義を助かろうと祈ったとて、愛宕あたご 様もどうしてお助けなされることであろう。
『現代訳 西鶴名作選』 訳者:東 明 雅 発行所:小 館 学 ヨ リ
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