おさん悲しさ、茂右衛門の迷惑、
「かりそめの事を申し出て、これぞ因果と思ひ定め、この口惜しさ、またも憂き目に近江
の海にて死ぬべき命を永らへしとても、天我われ
をのがさず」 と、脇差わきざし
取りて立つを、おさん押しとどめて、 「さりとは短みじか
し、さまざま分別ふんべつ こそあれ、夜明けてここを立退たちの
くべし、万事は我にまかせ給へ」 と気をしづめて、その夜は心よく祝言しうげん
の盃さかづき 取りかはし、 「我は世の人の嫌ひ給ふ丙午ひのえうま
なる」 と語れば、是ぜ 太郎聞きて、
「たとへば、丙猫ひのえねこ にても、丙狼ひのえおほかみ
にても、それにはかまはず、それがしは、好みて青蜥蜴あおどかげ
を食うてさへ死なぬ命、今年二十八まで虫腹むしばら
一度起おこ こらず、茂右衛門もこれのはあやかり給へ。女房どもは上方かみがた
育ちにして、物にやはらかなるが気には入らねども、親類のふしやうなり」 と、膝枕ひざまくら
してゆたかに臥ふ しける。悲しき中にもをかしくなって、寝入るのを待ちかね、又ここを立退たちの
き、なほ奥丹波おくたんば に身をかくしける。
|
おさんの悲しさ、茂右衛門の迷惑、ともに限りなく、
「いい加減な事を言い出して、こんな事になったのも因果だと覚悟はするものの、この無念さ、またここでこんな憂き目にあうのだったら、近江おうみ
の湖で死んだがましだったものを、生き永らえても天道は我らを見逃してくださらないのだ」 と脇差を手に立ち上がるのを、おさんは押しとどめて、 「これはまたずいぶんと気の短い。色々私に思案がある。夜が明けてからここを立退きましょう。万事私に任せなさい」
と、気を落ち着けて、その夜は快く祝言の盃を取り交わして、 「私は世間の人が嫌う丙午ひのえうま
ですよ」 と話したところ、是太郎はこれを聞いて、 「よしんば丙猫ひのえねこ
でも丙狼ひのえおおかみ でも、そんな事は構わぬ。わしはすき好んで青とかげ・・・
を食うが、それでも死なぬ命だ。今年二十八になるまで虫腹一つ痛んだことがない。茂右衛門殿もこれにはあやかりなされ。この女房は上方かみがた
育ちで、物柔らかなのが気にくわぬが、親類だから仕方がなくもらってやるのじゃ」 と、おさんの膝ひざ
を枕にして、のびのびと横になった。悲しい中にもおかしくなって、是太郎が眠り込むのを待ちかね、またここを立退き、なお奥丹波に身を隠した。」
|
|
やうやう日数ふりて、丹後路たんごぢ
に入りて、切戸きれと の文殊堂もんじゆどう
に通夜ゆや してまどろみしに、夜半やはん
と思ふ時、あらたに霊夢れいむ
あり。 「汝等なんぢら 世になきいたづらして、何国いづく
までか、その難のがれがたし。されども、返らぬ昔なり。向後きやうこ
浮世うきよ の姿を止や
めて、惜しきと思ふ黒髪を切り、出家となり、二人別れ別れに住みて、悪心あくしん
去つて菩提ぼだい の道に入らば、人も命をたすくべし」
と、ありがたき夢心に、 「末々は何にならうとも、かまはしやるな。こちや、これが好きにて身に替へての脇心わきごころ
、文殊様もんじゆさま は、衆道しゆだう
ばかりの御合点ごがつてん 、女道によだう
はかつて、知ろしめさぬまじ」 といふかと思へば、いやな夢覚めて、橋立はしだち
の松の風ふけば、 「塵ちり の世じやもの」
と、なほなほ止や む事なかりし。 |
次第に日数が経って、丹後路たんごじ
にはいり、切戸きれと の文殊堂もんじゅどう
に通夜つや をしてうとうととしていたところ、夜半と思う時、あらたかな霊夢があった。
「お前たちは、世間にまたとない、不義をして、どこまで逃げたとしても、その罪を逃れることは出来ぬぞ。今後、俗人の姿はやめ、惜しいと思う黒髪くろかみ
を切り、出家となって二人別れ別れに暮らし、心得違いをやめ仏道に入るならば、世間の人も命だけは助けてくれるだろう」 と、ありがたいお告げを夢現うつつ
に聞いたが、 「行く末はどうなろうとお構いくださるな。私どもはこれが好きで、命にかえての徒あだ
し心でございます。文殊様は男色ばかりはご存知でも、女色のほうはまるでご存知ありますまい」 と言うかと思うと、いやな夢が覚め、天の橋立の松に風が吹くばかり、その吹けば飛ぶ
「塵ちり のようにはかない浮世じゃもの」
と、やはりこの道ならぬ恋をやめようとはしなかった。 |
|