〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part T-X』 〜 〜
中 段 に 見 る 暦 屋 物 語

2012/10/07 (日) 小 判 知 ら ぬ 休 み 茶 屋 (一)

丹波たんば えの身となりて、道なき方の草分衣くさわけごろも 、茂右衛門、おさんの手を引きて、やうやう峰高くのぼりて、あと 恐ろしく、思へば生きながら死んだぶん になるこそ、心ながらうたてけれ。なほ行先ゆくさき柴人しばびと足形あしかた も見えず、踏みまよふ身の哀れも今、女のはかなくたどりかねて、この苦しさ息も限りと見えて、顔色かほいろかは りて悲しく、岩もるしづく を木の葉にそそぎ、さまざま養生やうじやう すれども、次第にたより少なく、脈もしづみて、今にきは まりける。
薬にすべき物とてもなく、命のをは るを待ち居る時、耳近く寄せて、 「今少し先へ行けば、知るべある里近し。さもあらば、この憂きを忘れて、思ひのままに枕さだめて語らんものを」 と嘆けば、この事おさん耳に通じ、 「うれしや、命にかへての男ぢやもの」 と、気を取りなほしける。さては、たましひ恋慕れんぼ 入りかはり、ほか なきその身いたましく、又負うて行く程に、わづかなる里の垣根に着きけり。
ここなん京への海道といへり。馬も行き違う程のそば に、道もありける。わら けるのき杉折すぎをり 掛けて、 「上々じやうじやう 諸白もろはく あり」 。 餅も 幾日いくか になりぬ。ほこり をかづきて白き色なし。片見世かたみせ茶筅ちゃせん土人形つちにんぎやう ・かぶり太鼓たいこ 、すこしは目馴れし都めきて、これを力に得、しばし休みて、このうれしさに、あるじ の老人に金子きんす 一両取らしけるに、猫にからかさ 見せたるごとく、いやな顔つきして、 「茶の銭置き給へ」 といふ。 「さても、京よりこの所十五里はなかりしに、小判見知らぬ里もあるよ」 と、をかしくなりぬ。

丹波たんば の奥へ駆落かけお ちの身の上となって、道もない所の草を踏み分け、茂右衛門はおさんの手を引いて、やっとのことで高い峰に登ったが、やはり後の方が気がかりで恐ろしい。考えてみると生きていながら死んだ事になっているのは、自分の心からとはいえ、情けない事であった。さらに進んで行先は、木こりの足跡も見えず、道に踏み迷った身の哀れは今きわまり、おさんは女の身の弱々と足も運びかね、この苦しさ、息も絶えたかと見え、顔色も変わってきたので茂右衛門は悲しく、岩間を漏れる清水しみずしずく を木の葉に受けて、おさんの口に注ぎ、様々に介抱したけれども、次第に心細く、脈も弱りかすかになって、いよいよ今が最期という状態になった。
薬にするようなものとてもなく、ただ命が終わるのを待っている時、茂右衛門はおさんの耳元に口を寄せて、 「もう少し先へ行けば、知り合いのある村も近うございます。そこへ着いたら、この辛さも忘れ、思いのままに寝物語ができますのに」 と嘆いた。この言葉がおさんの耳に通じて、 「嬉しい、ほんとに命にかえて思い込んだ男だもにね」 と、気を取り直した。そうしてみると、おさんの魂には恋慕の心が入り替わったのか、恋のほかく は何も思わぬその身が哀れで、また背負って行くうちに、小さな村の垣根かきね辿たど り着いた。
ここは京へ通ずる街道という事で、がけ に馬も行き違うほどの道が付いている。わら 屋寝の軒先に杉の葉を折って掛け 「上上じょうじょう 諸白もろはく あり」 の看板を出し、もち を売っているが、 いてから幾日経ったのやら、ほこり をかぶって白い色はなくなっている。片店には茶筅ちゃせん ・土人形・かぶり太鼓などが売っており、少し見慣れた品に京の匂いがするので元気付き、しばらく休んで嬉しさのあまり、あるじ の老人に金子きんす 一両与えたところ、ねこからかさ を見せたように嫌な顔をして、 「お茶代を置きなされ」 と言う。 「さてさて京からここまで十五里も離れていないのに、小判を見知らぬ里もあるものか」 と、おかしくなた。

『現代訳 西鶴名作選』 訳者:東 明 雅 発行所:小 館 学 ヨ リ
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