〜 〜 『 寅 の 読 書 室 Part T-X』 〜 〜
中 段 に 見 る 暦 屋 物 語
2012/10/07 (日) 人 を は め た る 湖 (一)
世にわりなきは
情
(
なさけ
)
の道と、源氏にも書き残せし。ここに、
石山寺
(
いしやまでら
)
の開帳とて、
都人
(
みやこびと
)
袖をつらね、東山の桜は捨て物になして、行くも帰るもこれやこの関越えて見しに、大方は、
今風
(
いまふう
)
の女
出立
(
でたち
)
、どれかひとり、
後世
(
ごせ
)
わきまへて
参詣
(
まう
)
でけるとは見えざりき。皆、
衣裳
(
いしやう
)
くらべの姿自慢、この心ざし
観音様
(
くわんおんさま
)
もをかしかるべし。その頃、おさんも茂右衛門つれて
御寺
(
みでら
)
に参り、 「花は命にたとへて、いつ散るべきも定めがたし。この
浦山
(
うらやま
)
を又見る事の知れざれば、
今日
(
けふ
)
の思ひ出に」 と、
勢田
(
せた
)
より手ぐり舟を借りて、 「
長橋
(
ながはし
)
の頼みをかけても短きは、我々が楽しび」 と浪は枕のとこの山、あらはるるまでの
乱髪
(
みだれがみ
)
、物思ひせし
顔
(
かほ
)
ばせを、鏡の山も曇る世に、
鰐
(
わに
)
の
御崎
(
みさき
)
ののがれがたく、
堅田
(
かただ
)
の舟呼ばひも、 「もしや京よりの
追手
(
おつて
)
か」 と、
心玉
(
こころだま
)
もしづみて、ながらへて
長柄山
(
ながらやま
)
、我が年の程もここにたとへて、 「都の富士、
二十
(
はたち
)
にもたらずして、やがて消ゆべき雪ならば」 と、
幾度
(
いくたび
)
袖を濡らし、 「
志賀
(
しが
)
の都は昔語りと、我もなるべき身の果てぞ」 と、
一入
(
ひとしほ
)
に悲しく、
龍灯
(
りゆうとう
)
のあがる時、
白髭
(
しらひげ
)
の
宮所
(
みやどころ
)
に着きて、神祈るにぞ、いとど身の上はかなし。
この世で人の思慮分別の
外
(
ほか
)
のものは恋の道だと、源氏物語にも書き残されている。ところで、その頃石山寺の開帳というので、都の人達は相伴って参詣し、東山の桜など見向きもせず、
逢坂
(
おうさか
)
の
関
(
せき
)
を越えてゆく人もあり帰るもある。その様子を見ると、大方の者は当世風の
出立
(
いでた
)
ちで、誰一人として
後世安楽
(
ごせあんらく
)
を願う心からの参詣とは見えなかった。皆
贅沢
(
ぜいたく
)
な衣裳を比べあう姿自慢である。この本心を見抜いて観音様もおかしく思われる事だろう。その頃、おさんも茂右衛門を連れて石山寺に参詣し、 「花は人の命のたとえに引かれる通り、いつ散るか定め難いもの。この湖や山々の景色を二度と見られるかどうかわからないから、今日の思い出に」 と、瀬田から
手繰
(
てぐり
)
船っを借り、 「瀬田の長橋の名のように末長くと祈っても、短いものは我々の楽しみだ」 と、波を枕の短い
逢瀬
(
おうせ
)
に、人目につくほど髪も乱れて、物思いに沈んだ顔を映せば鏡山も涙で曇るであろう。
鰐
(
わに
)
の
御崎
(
みさき
)
の名に鰐の口をのがれられない運命を観念し、
堅田
(
かただ
)
の漁師達が船で呼び合っている声も、 「もしや京からの追っ手ではないか」 と、
肝
(
きも
)
を冷やし、
長柄山
(
ながらやま
)
にあやかって命長かれと思うものの、 「私の年も二十にもならないで、比叡の雪のように、まもなく消えてゆくのだろうか」 と、幾度も涙に
袖
(
そで
)
を濡らし、 「志賀の都と同様、やがて我々も昔語りとなる運命だろう」 と、一層悲しく、神燈のともる夕暮れ時、
白髭
(
しらひげ
)
の宮に着いて、神様に寿命のほどをお祈りするにつけても、いよいよはかない二人の身の上であった。
『現代訳 西鶴名作選』 訳者:東 明 雅 発行所:小 館 学 ヨ リ
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