〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part T-X』 〜 〜
なさけ を 入 れ し たる 物 語

2012/10/03 (水) 木 屑 の すぎ やう 一 寸 先 の 命 (二)

ここに、樽屋が女房も、日頃御ねんごろ なれば、 「御勝手ごかつて にて働く事も」 と、御見舞みまひ 申しけるに、かねて、才覚さいかく らしく見えければ、 「そなたは、納戸なんど にありし菓子の品々を縁高ふちたか組付くみつ けて」 と申せば、手元見合みあは せ、饅頭まんぢゆう御所柿ごしよがき唐胡桃たうぐるみ落雁らくがんかや杉楊枝すぎやうじ 、これをあらましに取合とりあは す時、亭主の長左衛門、棚より入子鉢いれこばちおろ ろすとて、おせんがかしら取落とりおと し、うるはしき髪の結目ゆひめ 、たちまちとけて、あるじ 、これを悲しめば、 「すこしも苦しからぬ御事」 と申して、かいつの ぐりて、台所へ出けるを、麹屋かうぢや内儀ないぎ 、見とがめて気をまはし、 「そなたの髪は、今の先までうつくしくありしが、納戸なんど にてにはか にとけしは、いかなる事ぞ」 といはれし。
おせん、身に覚えなく、物しづかに、 「旦那殿、棚より道具を取落し給ひ、かくはなりける」 と、ありやうに申せど、これをさらに合点がてん せず、 「さては、昼も棚から入子鉢いれこばち の落つる事もあるよ。いたづらなる七つ鉢め、枕せずにけはしく寝れば、髪はほどくる物ぢゃ。よい年をして、親のとむら ひの中にする事こそあれ」 と、人の気つくして盛形刺身もりかたさしみ を投げこぼし、 にあて にあて、一日いちにち この事いひ まず。後は、人も聞耳ききみみ 立てて興 めぬ。

ここに樽屋の女房も、平素懇意に願っていたので、 「何かお勝手で働く事でもございましたら」 と、お尋ねしてご 挨拶あいさつ したところ、かねがね機転がききそうに見えていたので、 「そなたは納戸なんど にある菓子の品々を縁高ふちたか に盛りつけてくだされ」 と頼まれ、おせんは手元にある品を見合わせて、饅頭まんじゅう御所柿ごしょがきとう ぐるみ・落雁らくがんかや の実・杉楊枝すぎようじ 、これらのものを適当に盛り合わせていた時、ここの亭主の長左衛門が、たな から入れ子鉢こばち をおろそうとして、おせんの頭の上に取落したので、きちんと った髪の結び目がたちまち解けてしまった。亭主がこれを悲しんで びると、おせんは 「ちっともかまわぬ事でございます」 と言って、髪をぐるぐる巻きにして台所に出て行ったのを、麹屋こうじや のお内儀が見とがめて気を回し、 「そなたの髪は、つい今先まできちんと結っていたのに、納戸の中で急に解けたのはどうした事じゃ」 と言われた。おせんは、その身に何も覚えがないので、もの静かに、 「こちらの旦那だんな 様が、たな から道具を取り落されたので、このようになりました」 と、ありのままに話したが、お内儀はいっこうにこれで納得せず、 「さては、昼でも棚から子鉢こばち の落ちてくる事があると見える。いやらしい七つ鉢め、まくら をせずに急いで寝ると、髪はほどけるものじゃ。よい年をして、親の法事の最中に、する事もあろうに」 と人が苦心して盛りつけた刺身を投げ捨て、何につけかにつけて、一日じゅうこの事を言いやまず、後々は、人も聞き耳を立てて、あきれはててしまった。

『現代訳 西鶴名作選』 訳者:東 明 雅 発行所:小 館 学 ヨ リ
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