〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part T-X』 〜 〜
なさけ を 入 れ し たる 物 語

2012/10/03 (水) 木 屑 の すぎ やう 一 寸 先 の 命 (三)

かかる悋気りんき の深き女を持合もちあは すこそ、その男の身にして因果なれ。おせん迷惑ながら聞き暮せしが、 「思へば思へばにくき心中、とても濡れたるたもと なれば、この上は、是非ぜひ に及ばず、あの長左衛門になさけ けをかけ、あんな女に鼻あかさん」 と思ひそめしより、格別の心ざし、程なく恋となり、しのびしのびに申しかは し、いつぞの首尾しゆび を待ちける。
貞享ぢやうきやう 二年正月二十二日の 、恋は引手ひくて宝引縄ほうびきなは 、女子の春なぐさ み、更けゆくまで取り乱れて、負け退 きにするもあり、勝つ飽かず遊ぶもあり、我知らずいびき を出すもありて、樽屋も、ともし火消えかかり、男は昼のくたびれに鼻をつまむもしらず。おせんが帰るにつけこみ、 「ないない約束、今」 といはれて、いや がならず、内に引入ひきい れ、跡にもさきにも、これが恋のはじめ、下おびひも ときもあへぬに、樽屋は目をあき、 「会はばのが さぬ」 と声をかくれば、夜の衣をぬぎ捨て、丸裸にて、心玉こころだま 飛ぶがことく、はるかなる藤に棚に紫のゆかりの人ありければ、命からがらにて逃げのびける。
おせん、 「かなはじ」 と覚悟の前、かんな にして心もとを刺し通し、はかなくなりぬ。そののち亡骸なきがら も、いたづら男も、同じ科野とがの に恥をさらしぬ。その名さまざまの作り歌に、遠国ゑんごく までも伝へける。あしき事はのがれず、あな恐ろしの世や。

こんな嫉妬しっと 深い女を妻に持ち合わせた亭主の身こそ災難である。おせんは迷惑ながらそれを聞き暮らしたが、 「思えば思うほど、あの内儀の憎い心根、どうせspan>ぎぬ の浮名を立てられたからには、是非もない。あの長左衛門に情けをかけて、あんな女の鼻をあかしてやろう」 と、思い めてからは、今までとはすっかり心持が変わって、やがて本当の恋となり、忍び忍びに言いかわ して、いつかよい逢引あいびき の機会を待っていた。
貞享じょうきょう(1685) 年正月二十二日夜。引く手あまたの恋ならぬ宝引縄ほうびきなわ 、これは、女の正月の遊戯である。その引縄を手に、夜が けてゆくまで入り乱れて騒ぎ、負けたままやめて帰る者もあり、勝ち続けて飽きずに遊ぶ者もあり、我知らずいびき をかく者もいる。樽屋の家は燈火も消えかかり、亭主は昼の仕事の疲れで鼻をつままれても知らぬくらい、ぐっすり寝込んでいた。おせんが家に帰るのにつけて来た麹屋こうじや の主人に、 「内々約束した逢引を今」 と言われて、いやとは言えず、家の内へ引入れて、後にも先にも、これがまったく二人の恋始であった。下帯と下紐したひも とを解くか解かぬに樽屋が目を覚まし、 「見つけたからはのがさぬぞ」 と声をかけたので長左衛門は夜の着物を脱ぎ捨てて、丸裸のまま魂もちゅう を飛ぶように遠く離れた谷町筋藤の棚の知るべを頼って命からがらに逃げのびたのであった。
おせんは、 「もうこれまで」 と覚悟の前、鑓鉋やりかんな で胸元を刺し通し、自殺してしまった。その後、おせんの死骸しがい も間男の長左衛門と一緒に同罪として菟餓野とがの の刑場にさらされ、恥を残した。二人の浮名はいろいろのはやりうた に作られ、遠い国々まで伝わったのであった。悪事は天罰をのがれず、まことに恐ろしい世の中である。

『現代訳 西鶴名作選』 訳者:東 明 雅 発行所:小 館 学 ヨ リ