〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part T-X』 〜 〜
なさけ を 入 れ し たる 物 語

2012/10/02 (火) こ け ら は 胸 の たき つけ さら たい (二)

かかる折節おりふしにはとり とぼけて宵鳴きすれば、大かま 自然とくさりて底を抜かし、つき 込し朝夕てうせき味噌みそ 風味ふうみ かはり、神鳴かみなり内蔵うちぐら軒端のきば に落ちかかり、よからぬ事うち続きし。これ皆、自然の道理なるに、この事気に懸けられし折から、誰がいふともなく、 「せんをこがるる男の執心しふしん 、今に む事なく、その人は樽屋なるは」 と申せば、親方伝へ聞きて、 「何とぞして、その男にせんをもらはさん」 と、横町のかか を呼びよせ、内談ないだん ありしに、 「常常せん申せしは、男持つとも職人はいや、といはれければ、心ともなし」 と申せば、 「それはいらざる物ごの み、何によらず世をさへ渡らば勝手づく」 と、さまさま異見いけん して、樽屋へ申しつか はし、縁の約束きは め、ほどなくせんに脇ふさがせ、鉄漿かね を付けさせ、吉日きちじつ を改められ、二番の木地きぢ 長持ながもち ひとつ、伏見ふしみ三寸の葛籠つづら 一荷いつか糊地のりぢ挟箱はさみばこ 一つ、奥様着下きおろ しの小袖二つ、夜着よぎ 蒲団ふとん茜縁あかねべり蚊屋かや 、昔じめ被衣かづき 、取りあつめて物数ものかず 二十三、銀二百目付けて送られけるに、相性あひしやう よく、仕合しあは せよく、夫は正直の頭をかたぶけ、細工さいく をすれば、女はふしかねぞめ の縞を織りならひ、明暮あけくれ かせぎける程に、盆前ぼんまへ大晦日おほつごもり にも内を出違ふほどにもあらず、大方おほかた に世を渡りけるが、殊更こおさら 、男を大事に掛け、雪の日、風の立つ時は飯注めしつ ぎを包み置き、夏は枕に扇をはなさず、留守るす には、宵から門口をかため、ゆめゆめ外の人には目をやらず、物を二ついへば、 「こちのお人 こちのお人」 とうれしがり、年月つもりてよき中に、ふたりまで生まれて、なほなほ男の事を忘れざりき。

このような折節、この家では鶏がとぼけて夜鳴きをするかと思うと、大釜おおがま は自然と腐って底が抜け、仕込んであった朝夕に使う味噌みそ の味が変わり、雷が内蔵うちぐら の軒端に落ちかかるなど、不吉な事が続いた。これらはみな自然の道理であるとはいいながら、気がかりになっておられた時に、誰が言うともなく、 「おせんに思いこが がれている男の執念が、まだ取り付いているのだ。そしてその男というのは樽屋たるや だ」 とうわさ が立ったので、主人が伝え聞かれて、「なんとかして、その男におせんをもら わせよう」 と、横町のかか を呼び寄せて、内々ないない に相談されたところ、 「かねがね、おせん殿が言われるには、夫は持つとも職人はいやということでしたので、どうもおぼつかのうございます」 と言う。 「それは無用の り好みというものじゃ。どんな商売でも、渡世さえできるならば、それで十分というものじゃ」 と、おせんにいろいろ意見を加えて承知させ、その事を樽屋へ申し入れて、縁組の約束を取り決めた。まもなく、おせんの袖脇そでわきふさ がせ、鉄漿かね をつけさせ、吉日を選んで、二番形の木地きじ の長持一竿さお 、伏見三寸の葛籠つづら 一荷、糊地のりじはさ み箱一つ、奥様からお下がりの小袖こそで 二枚、夜着蒲団ふとんあかね 染めのへりをつけた蚊帳かや 、昔染めの被衣かずき 、全部合わせて品数二十三、持参金として二百匁 (約十万円) 付けて嫁入らせたところ、夫婦の相性あいしょう もよく、しあわせもよく、夫は正直に家業の細工をすれば、妻はふしかね染めの縞物しまもの を織り習って、明け暮れ共稼ともかせ ぎをしたので、盆前ぼんまえ大晦日おおみそか の決算日にも、借金取りを避けて家を逃げ出すほどのこともなく、人並みに世を渡っていたが、おせんはことに亭主を大切にして、雪の日や風の吹く時には飯櫃めしひつ を包んでおき、夏は枕元に扇を離さずあおいでやり、亭主が留守るす の時はよい のうちから門口をしっかり閉じて、夢にもほかの男には目もくれず、二言目には 「こちのお人、こちのお人」 とうれ しがり、こうして年月つもって、むつ まじい夫婦の仲に子供が二人まで生まれ、なおいっそう夫のことを忘れず大切にしたのであった。

『現代訳 西鶴名作選』 訳者:東 明 雅 発行所:小 館 学 ヨ リ
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