〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part T-X』 〜 〜
なさけ を 入 れ し たる 物 語

2012/09/30 (日) 京 の 水 も ら さ ぬ 中 忍 び て あひ くぎ (五)

久七、寝ながら手をさしのばし、行燈あんどう土器かはらけ かたむけ、やがて消ゆるやうにすれば、樽屋は枕に近き窓蓋まどぶた を突きあけ、 「秋もこの暑さは」 といへば、折りしも晴れわたる月、四人の寝姿をあらはす。おせん空鼾そらいびき を出せば、久七、右の足をもたす。樽屋これを見て、扇子拍子あふびやうし をとりて、 「恋は曲者、皆人の」 と曾我そが道行みちゆき を語り出す。おせんは目さま して、嚊に寝物語ねものがたり 、 「世に女の子を むほど恐ろしきはなし。常々つねづね 思ふに、ねん の明き次第、北野の不動堂のお弟子になりて、末々は出家の望み」 と申せば、嚊、うつつ のやうに聞きて、 「それがまし、思ふやうに物のならぬ浮世うきよ に」 と、前後を見れば、宵の西枕の久七は、南かしら に、ふんどしときてゐるるは、物参りの旅ながら不用心なり。樽屋は、蛤貝はまぐり丁字ちやうじ の油を入れ、小杉の鼻紙に持添へ、無念なる顔つきをかし。

久七は寝たまま手をのばして行燈あんどん土器かわらけ を傾けて、灯がすぐ消えるようにすると、樽屋たるやまくら に近い突上げ窓の戸を開けて、 「秋になってもこの暑さはどうだ」 と言う、折から晴れ渡る月の光が四人の寝姿を照らし出した。おせんが空鼾そらいびき を出して眠ったふりをすると、久七は右の足をもたせ掛ける。樽屋はこれを見て、扇拍子を取って、 「恋は曲者くせもの 、皆人の」 と世継よつぎ 曾我そが の道行をかたり出す。おせんは目を まして、嚊に寝物語に、 「世の中で女がお産をするほど恐ろしい事はありません。常々思うに、年季の明き次第、北野の不動堂のお弟子になって、行く行くは尼になりたい望みです」 と言うと、嚊は、うとうと夢うつつに聞いて、 「それがいいよ、何事も思うとおりにはならぬ浮世じゃ」 と言って、前後を見回すと、よい に西枕で寝たはずの久七は南かしらになって、ふんどし も解いているのは、物参りの旅とはいうものの不用心事である。樽屋は、はまぐり丁子ちょうじ の油を入れ、小杉の鼻紙に持ち添えて、残念そうな顔つきで寝ているのもおかしかった。

『現代訳 西鶴名作選』 訳者:東 明 雅 発行所:小 館 学 ヨ リ
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