〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part T-X』 〜 〜
なさけ を 入 れ し たる 物 語

2012/09/29 (土) 京 の 水 も ら さ ぬ 中 忍 び て あひ くぎ (二)

八月十一日のあけぼの 前に、かの横丁のかか が板戸をひそかにたたき、 「せんでござる」 といひもあへず、そこそこにからげたる風呂敷づつみ 一つ投入れて帰る。物の取落しも心得こころえ なく、火をともして見れば、一匁つなぎの銭五つ、細銀こまがね 十八匁もあらうか、白搗しらつき 三升五合ほど、鰹節かつをぶし ひと つ、守袋まもりぶくろ に二つ櫛、染分そめわけ の抱へ帯、銀煤竹ぎんすすたけあはせ 、扇流しの中馴なかな れなる湯帷子ゆかた 、裏ときかけたる木綿足袋もめんたび草鞋わらじ もしどけなく、加賀笠かがかさ天満てんま 堀川ほりかは と、無用の書付かきつけ と、汚れぬやうに墨を落す時、門の戸を音信おとづ れ、 「かか 様、先へ参る」 と、男の声していひ捨てて行く。
八月十一日の夜明け前に、例の横町のかか の家の板戸をひそかにたたいて、 「せん・・ でございます」 と言いも終わらず、ざっとからげた風呂敷ふろしき 包み一つ投げ込んで帰った。何か入れ忘れたものがあったはと気がかりで、 をともして見ると、一匁つなぎの銭が五つ、小粒銀は十八匁ぐらいもあろうか。白米三升五合ほど、、鰹節かつおぶし 一本、守り袋に二つくし 、染分けのしごき帯、銀煤竹ぎんすすだけあわせ 、扇流し模様の中古の浴衣ゆかた 、裏を解きかけた木綿もめん 足袋たび 、わらじの緒もだらしなく、加賀笠かがかさ に 「天満堀川」 とあるのは、よけいな事を書きつけたものと、よご さぬように墨を洗い落としている時、門の戸を叩いて、 「嚊様、お先に参る」 と、男の声で言い捨てて行った。

その後、せんが身をふるはして、 「内方うちかた の首尾はただ今」 といへば、かか は風呂敷を げて、人知れぬ道を走りすぎ、 「我も大儀たいぎ なれども、神の事なれば、伊勢まで見届けてやらう」 といへば、せん、いやな顔して、 「年よられてなが の道、思へば思へば及びがたし。その人に我を引合ひきあは わせ、とかく、伏見から夜舟でくだ り給へ」 と、はや、まき心になりて、気のせくままに急ぎ行くに、京橋を渡りかかる時、傍輩はうばい の久七、今朝の御番替ごばんがは りを見にまか りしが、 「これは」 と見付けられしは、是非ぜひ もなき恋の邪魔なり。

その後、おせんが身をふるわせながらやって来て、 「お家の方の都合はただ今」 と言うと、嚊は風呂敷を げて、一緒に人目につかぬ道を走り過ぎて、 「わたしも大儀だが、神信心の事だから、伊勢まで行ってお二人を見届けてあげよう」 と言うと、おせんはいやな顔をして、 「お年寄りの長道中、どう考えても少しご無理でしょう。そのお方に私を引き合わせて、ともかく伏見ふしみ から夜舟で大阪へお下りなさい」 と、早くも嚊をまいてしまう気になり、心のせくまま急いで行くうちに、京橋を渡りかかった時、今朝の御番替ごばんがわ りを見に行った朋輩ほうばい の久七に、 「や、これは」 と見つけられたのは、どうにもならぬ恋の邪魔じゃま というものであった。
『現代訳 西鶴名作選』 訳者:東 明 雅 発行所:小 館 学 ヨ リ
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