八月十一日の曙
前に、かの横丁の嚊かか が板戸をひそかにたたき、
「せんでござる」 といひもあへず、そこそこにからげたる風呂敷包づつみ
一つ投入れて帰る。物の取落しも心得こころえ
なく、火をともして見れば、一匁つなぎの銭五つ、細銀こまがね
十八匁もあらうか、白搗しらつき
三升五合ほど、鰹節かつをぶし
一ひと つ、守袋まもりぶくろ
に二つ櫛、染分そめわけ の抱へ帯、銀煤竹ぎんすすたけ
の袷あはせ 、扇流しの中馴なかな
れなる湯帷子ゆかた 、裏ときかけたる木綿足袋もめんたび
、草鞋わらじ の緒を
もしどけなく、加賀笠かがかさ
に天満てんま 堀川ほりかは
と、無用の書付かきつけ と、汚れぬやうに墨を落す時、門の戸を音信おとづ
れ、 「嚊かか 様、先へ参る」
と、男の声していひ捨てて行く。 |
八月十一日の夜明け前に、例の横町の嚊かか
の家の板戸をひそかにたたいて、 「せん・・
でございます」 と言いも終わらず、ざっとからげた風呂敷ふろしき
包み一つ投げ込んで帰った。何か入れ忘れたものがあったはと気がかりで、灯ひ
をともして見ると、一匁つなぎの銭が五つ、小粒銀は十八匁ぐらいもあろうか。白米三升五合ほど、、鰹節かつおぶし
一本、守り袋に二つ櫛くし 、染分けのしごき帯、銀煤竹ぎんすすだけ
の袷あわせ 、扇流し模様の中古の浴衣ゆかた
、裏を解きかけた木綿もめん 足袋たび
、わらじの緒もだらしなく、加賀笠かがかさ
に 「天満堀川」 とあるのは、よけいな事を書きつけたものと、汚よご
さぬように墨を洗い落としている時、門の戸を叩いて、 「嚊様、お先に参る」 と、男の声で言い捨てて行った。 |
|
その後、せんが身をふるはして、
「内方うちかた の首尾はただ今」
といへば、嚊かか は風呂敷を提さ
げて、人知れぬ道を走りすぎ、 「我も大儀たいぎ
なれども、神の事なれば、伊勢まで見届けてやらう」 といへば、せん、いやな顔して、 「年よられて長なが
の道、思へば思へば及びがたし。その人に我を引合ひきあは
わせ、とかく、伏見から夜舟で下くだ
り給へ」 と、はや、まき心になりて、気のせくままに急ぎ行くに、京橋を渡りかかる時、傍輩はうばい
の久七、今朝の御番替ごばんがは
りを見に罷まか りしが、 「これは」
と見付けられしは、是非ぜひ もなき恋の邪魔なり。 |
その後、おせんが身をふるわせながらやって来て、
「お家の方の都合はただ今」 と言うと、嚊は風呂敷を提さ
げて、一緒に人目につかぬ道を走り過ぎて、 「わたしも大儀だが、神信心の事だから、伊勢まで行ってお二人を見届けてあげよう」 と言うと、おせんはいやな顔をして、
「お年寄りの長道中、どう考えても少しご無理でしょう。そのお方に私を引き合わせて、ともかく伏見ふしみ
から夜舟で大阪へお下りなさい」 と、早くも嚊をまいてしまう気になり、心のせくまま急いで行くうちに、京橋を渡りかかった時、今朝の御番替ごばんがわ
りを見に行った朋輩ほうばい の久七に、
「や、これは」 と見つけられたのは、どうにもならぬ恋の邪魔じゃま
というものであった。 |
|