〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part T-X』 〜 〜
なさけ を 入 れ し たる 物 語

2012/09/29 (土) 京 の 水 も ら さ ぬ 中 忍 び て あひ くぎ (一)

「朝顔のさかり、朝なが めはひとしほ涼しさも」 と、よい より奥様の仰せられて、家居いへゐ はなれし裏の垣根に腰掛こしかけ をならべ、花氈はなせん 敷かせ、 「重菓子ぢゆうくわし 入れに焼飯やきいひ 、そぎ楊枝やうじ茶瓶ちやびん 忘るな。あけ 六つのすこし前に行水ぎやうずい をするぞ。髪はついをり に、帷子かたびら広袖ひろそで に、桃色の裏付うらつき を取出せ、帯は鼠?子ねずみじゆす に丸づくし、飛紋とびもん の白き二布物ふたのもの 、よろづに心つくるは、隣町より人も見るなれば、下々しもじも にも継ぎのあたらぬ帷子かたびら を着せよ。天神橋のいもとかた へは、つねの起き時に、乗物のりもの むかひにつか はせよ」 と、何事をも、せんにまかせられ、ゆたかなる蚊帳かちやう に入り給へば、四つのすみ の玉の鈴、音なして、寝入り給ふまで、番手ばんて団扇うちは の風静かなり。我が家の裏なる草花見るさへ、かく様体なり。
惣じて、世間の女のうはかぶきなる事、これにかぎらず。亭主は、なほおごりて、島原の野風のかぜ新町しんまち荻野をぎの 、この二人を毎日にな ひ買ひして、津村つむら御堂参みだうまゐ りとて、肩衣かたぎぬ は持たせ出しが、すぐ に朝ごみに行くよし見えける。
「朝顔の花盛りに、朝早くなが めたらひとしお涼しいだろう」 と、よい のうちに奥様が仰せられて、母屋から離れた裏の垣根かきねきわ に腰掛を並べ、花毛氈もうせん を敷かせ、 「重菓子ずゆうかし 入れに焼きむすびを入れ、そぎ楊枝ようじ茶瓶ちゃびん を忘れぬよう。明け六つ (午前六時) の少し前に行水ぎょうずい をしますよ。髪はつい三つ折りにして、帷子かたびら広袖ひろそで にもも色の裏付きのを出しておくれ。帯はねずみ色の?子しゅす に丸尽し、飛紋とびもん の白い腰巻。万事このように気を配るのは、隣の人が見るからなので、召使の者にも、継ぎのあたらぬ帷子かたびら を着せなさい。天神橋の妹の所へは、いつもの起き時分に乗物を迎えにやるように」 と、何事もおせんに任せられ、奥様は広々とした蚊帳の中に入られると、四隅に付けた玉の鈴がちりちりと鳴って、眠ってしまわれるまで、代わりばんこであおぐ団扇うちわ の風が静かであった。自分の家の裏にある草花を見るのにさえ、このように大げさなのである。
いったいに、世間の女の派手な贅沢三昧ぜいたくざんまい は、この女に限った事ではない。亭主の方はなおさらおご って、島原の大夫たゆう 野風のかぜ 、新町の大夫荻野おぎの 、この二人を毎日にな い買いして、今日も津村つむら御堂参みどうまい りに行くということで、お供の者に肩衣かたぎぬ を持たせて出かけたが、そのまますぐに新町くるわ の朝ごみに行く気配けはい がうかがわれた。
『現代訳 西鶴名作選』 訳者:東 明 雅 発行所:小 館 学 ヨ リ
Next