〜 〜 『 寅 の 読 書 室 Part T-X』 〜 〜
情
(
なさけ
)
を 入 れ し
樽
(
たる
)
屋
(
や
)
物 語
2012/09/28 (金)
踊
(
おどり
)
は く づ れ 桶 夜
更
(
ふ
)
け て
化
(
ばけ
)
物
(
もの
)
(五)
嚊
(
かか
)
、よき
折節
(
をりふし
)
とはじめを語り、 「今は何をかかくすべし。かねがね我を頼まれしその心ざしの深き事、哀れとも
不便
(
ふびん
)
とも、又いふにたらず。この男を見捨て給はば、
自
(
みずか
)
らが
執着
(
しふぢやく
)
とても、脇へはゆかじ」 と、年頃の
口上手
(
くちじやうず
)
にて、いひ続けければ、おせんも自然となびき心になりて、もだもだと
上気
(
じやうき
)
して、 「いつにても、その
御方
(
おかた
)
に逢はせ給へ」 といふにうれしく、約束をかため、 「一段の
出合所
(
であひどころ
)
を分別せし」 と
小語
(
ささや
)
きて、 「八月十一日
立
(
だ
)
ちに、
抜参
(
ぬけまゐ
)
りを、この道すがら
契
(
ちぎ
)
りをこめ、
行末
(
ゆくすゑ
)
まで
互
(
たがひ
)
にいとしさかはゆさの枕物語、しみじみとにくかるまじき、しかも男ぶりぢや」 と、思ひつくやうに申せば、おせんも、逢はぬさきよりその男をこがれ、 「物も書きやりますか、頭は
後下
(
うしろさが
)
りでござるか、職人ならば腰はかがみませぬか、ここ出た日は、
守口
(
もりくち
)
か
枚方
(
ひらかた
)
に昼から泊りまして、
蒲団
(
ふとん
)
を借りて早う寝ましよ」 と取りまぜて
談合
(
だんかふ
)
するうちに、
中居
(
なかゐ
)
の
久米
(
くめ
)
が声して、 「おせんどの、お呼びなされます」 といへば、 「いよいよ十一日の事」 と申し残して帰りける。
嚊は、よい折だと一部始終を話し、 「今となっては何を隠そう。かねがね私を頼み込まれたその志の深いことは、かわいそうとも気の毒とも、何とも言いようのないくらい。こんな男を見捨てられるような事があったら、この嚊の執念も外へは行きませぬぞ」 と、長年鍛えた口上手で言い続けたので、おせんもおつかつい男に心を引かれるようになって、もやもやとのぼせてしまい、 「いつでもよい時に、そのお方に
逢
(
あ
)
わせてください」 と言うので
嬉
(
うれ
)
しく、約束を固め、 「一段とよい
逢引
(
あいびき
)
の場所を思いついたぞ」 と嚊は小声になって、 「八月十三日に出発で抜け参りして、その道中に心も体もうちとけ、行く末長く、互いにいとしさかわいさの変らぬ寝物語をしみじみするのも悪くはあるまい。しかも相手はよい男前じゃ」 と、心を動かすように言うので、おせんも
逢
(
あ
)
わぬ前からその男が恋しくなり、 「その方は字も書かれますか。頭は
後下
(
うしろさが
)
りでござりますか。職人ならば腰がかがんではおりませぬか。ここを
発
(
た
)
った日は、
守口
(
もりぐち
)
か
枚方
(
ひらかた
)
かの宿に昼から泊って、
蒲団
(
ふとん
)
を借りて早う寝ましょ」 と、あれこれと相談しているうちに、中居の
久米
(
くめ
)
の声で、 「おせん殿、お呼びなされます」 と言うので、 「それではいよいよ十一日の事」 と言い残して、おせんは帰って行った。
『現代訳 西鶴名作選』 訳者:東 明 雅 発行所:小 館 学 ヨ リ
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