〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part T-X』 〜 〜
なさけ を 入 れ し たる 物 語

2012/09/28 (金) おどり は く づ れ 桶 夜 け て ばけ もの (四)

やうやう朝日かがやき、秋の風身にはしまざる程吹きしに、かか鉢巻はちまき して枕重げにもてなし、岡島をかしま 道斎だうさい といへるを頼み、薬代やくだい当所あてど もなく、手づから薬鑵やくわん にて、頭煎かしらせん じのあがる時、おせん、裏道より見舞みま ひ来て、 「お気合きあひ はいかが」 とやさしく尋ね、左のたもと より奈良漬瓜ならづけうり片舟かたふねはす の葉に包みて、たば の上に置き、 「醤油のたまりを参らば」 といひ捨てて帰るを、嚊引きとどめて、 「我ははや、そなたゆゑに、思ひよらざる命を捨つるなり。みづか ら娘とても持たざれば、なきあと にてとむら ひもて給はれ」 と、古き苧桶をごけ の底より、くれない織紐おりひも 付けし紫のかは 足袋たび 一足、継ぎ継ぎの珠数袋じゆずぶくろ 、この中に、去られた時のいとま の状ありしを、これはとつて捨て、この二色ふたいろ を、おせんに形見とて渡せば、女心のはかなく、これを誠に泣出なきだ し、 「我に心ある人、さもあらば、何とて、その道知るるこなた様を頼み給はぬぞ、思はく知らせ給はば、それをいたづらにはなさじ」 といふ。
ようやく朝日が輝き、秋の風もまだ身にはしまぬほどに吹くころ。かか鉢巻はちまき をして、まくらも上がらぬようなそぶりで、岡島道斎という医者を呼んで てもらい、薬代を払う当てどもなく、自らやかんで薬をせん じたが、その一番煎じのできたころ、おせんは裏道から見舞いに来て、 「ご気分はいかがですか」 と優しく尋ね、左のたもと から奈良漬瓜ならづけうり片舟かたふねはす の葉に包んだものを取り出し、束ねたたきぎ の上に置いて、 「醤油しょうゆたまり・・・ を召し上がるなら持ってまいります」 と言い捨てて帰ろうとするのを、かか は引き止めて、「私はもう、そなたのために思いもよらぬ命を捨てるのじゃ。時分は娘というものを持たぬゆえ、どうぞ死んだ跡を弔うてくだされ」 と、古いおごけ・・・ の底から、紅の織紐おりひも を付けた紫のかわ 足袋たび を一足、継ぎはぎの数珠じゅず の袋、この中に離縁された時もら った三行半が入っていたのを、それは取って捨て、この二つの品をおせんに形見だと言って渡したので、女心はあさはかにも、これを誠と思い込んで泣き出し、 「私を思ってくださる人は、それほどまでならば、どうして恋路に明るいあなた様をお頼みなされぬのです。思いのほどを知らせてくださったなら、それを無にするような事はいたしませぬ」 と言う。
『現代訳 西鶴名作選』 訳者:東 明 雅 発行所:小 館 学 ヨ リ
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