〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part T-X』 〜 〜
なさけ を 入 れ し たる 物 語

2012/09/28 (金) おどり は く づ れ 桶 夜 け て ばけ もの (三)

このかか仕懸しかけ 、さてもさても恋にうとからず、夜半やはん なりて、おのおの に手をひかれ、小家にもどり、この上の首尾しゆび をたくらむうちに、東窓より明ろさし、隣に火打石ひうちいし の音、赤子泣出なきいだ し、紙帳しちやう もりて、夜もすがら食はれし蚊をうらみて追払おいはら ひ、二布ふたののみ 取る片手に、仏棚ほとけだな よりはした銭を取出し、つまみ 買ふなど、物のせはしき世渡りの中にも、夫婦の語らひを楽しみ、南枕みなみまくら寝莚ねむしろ しどけなくなりしは、過ぎつる夜、甲子きのえね をもかまはず、何事をかしはべ る。
このかか の手口は、実に恋の道にかなった抜かりないものであった。夜半になって、人々に手を引かれ、嚊は自分の小家に帰って、さらに次の手はずを案じているうちに、東の窓が白んで、隣家では火打石を打つ音が聞こえ、赤ん坊が泣き出す。紙帳しちょう の破れから入り込んで、一晩じゅう食われた蚊を恨んで追い払い、腰巻ののみ を取る片手で、仏棚ほとけだな から小銭を取り出して、売りに来たつまみ菜を買うなど、あくせく気ぜわしい暮しの中にも、夫婦の生活を楽しむと見えて、南枕に敷いた寝莚ねむしろ が乱れているのは、昨夜は交わりを甲子きのえね であったのもかまわず、何事かしたのだろうか。
『現代訳 西鶴名作選』 訳者:東 明 雅 発行所:小 館 学 ヨ リ
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