〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part T-X』 〜 〜
なさけ を 入 れ し たる 物 語

2012/09/27 (木) おどり は く づ れ 桶 夜 け て ばけ もの (二)

内儀、隠居の上様かみさま をはじめて、 「何事か目に見えてかくは恐れけるぞ」 「われ 事、年寄としより のいはれざる夜歩よあり きながら、宵より寝ても目もあはぬあまりに、をどり 見に参りしほどに、鍋島殿なべしまどの の屋敷の前に、京の音頭おんどう 道念だうねん 仁兵衛が口うつし、山くどき、松づくし、しばらく耳に飽かず、あまたの男の中を押しわけ、団扇うちは かざしてなが めけるに、闇にても人はかしこく、老いたる姿をかづかず、白き帷子かたびら に黒き帯の結び目を当風たうふう に味はやれども、かりそめに我がしり つめる人もなく、女は若きうちのものぞと、すこしは昔の思はれ、口惜しくて帰るに、このかど 近くなりて、年の程二十四五の美男、我にとりつき、 『恋にせめられ今思ひ死に、ひとへ二日ふつか浮世うきよ のかぎり、腰元おせんつれなし、この執心しふしん ほか へは行くまじ、この家内かない を七日がうちに一人も残さず取殺とりころ さん』 といふ声の下より、鼻高く顔赤く眼ひかり、住吉すみよし御祓おはら ひの先へ渡る形のごとく、それに魂取られ、ただ物すごく内方うちかた へかけ入る」 のよし 語れば、いづれも驚く中に、隠居なみだ を流し給ひ、 「恋忍ぶ事、世になきならひにあらず。せんも縁付えんづき ごろなれば、その男身過みすぎ をわきまへ、博奕ばくち後家ごけ ぐるひもせず、たまかならば、取らすべきに、いかなる者とも知れず、その男不便ふびん や」 と、しばし物いふ人もなし。
内儀や隠居のお婆様をはじめ、家中の者どもが集まって、 「いったい何を見てそのように恐れたのじゃ」 と尋ねると、 「私は、年寄りのくせに無用な夜歩きながら、よい から寝ても寝つかれぬままに、踊りを見に参ったところ、鍋島殿なべしまどの のお屋敷の前で、京の音頭おんど り道念仁兵衛そっくりの節回しで、山くどきや松づくしを歌っておりました。しばらくそれに聞き れ、大勢の男の中を押し分けて、団扇うちわ を顔にかざしてなが めていましたが、やみ の中でも人は利口なもので、年取った姿にだまされず、白い帷子かたびら に黒い帯の結び目を当世風にしゃれてはみたものの、仮にも私のしり める男はなく、女はやはり若いうちが花よと、少しは昔の事が思い出され、口惜しくなって帰る途中、おのお宅の門近くなった所で、年の頃二十四、五の美男が、私にすがりついて、 『恋に められて、いまこが れ死にする、一両日中にこの世の別れ、ここの腰元おせんは情け知らずじゃ。この執念は外へはゆかぬ。この家中の者ども七日の内に一人も残さず取り殺してやるぞ』 という声の下から、鼻高く顔赤く目が光って、住吉のおはら いの行列の先に立つ天狗てんぐ 様の形そっくりになり、私はそれにきも をつぶし、ただ恐ろしさのあまり、お宅に駆け込んだのでごじました」 と訳を話したので、一同驚く中にも、隠居のお婆様は泪を流されて、 「人に恋い焦がれるという事は世間によくある事じゃ。せんも嫁入りしてよい年頃ゆえ、その男が渡世の道をわきま え、博打ばくち やおやま狂もせず、実直者なら、嫁にやってもよいのに、どこの誰やらも知れず、かわいそうな男じゃ」 と言われたので、しばらく物を言う者もなかった。
『現代訳 西鶴名作選』 訳者:東 明 雅 発行所:小 館 学 ヨ リ
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