〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part T-X』 〜 〜
なさけ を 入 れ し たる 物 語

2012/09/26 (水) おどり は く づ れ 桶 夜 け て ばけ もの (一)

天満に七つの化物ばけもの あり。大鏡寺たいきやうじ の前の傘火からかさび神明しんめい の手なしちご曽根崎そねざきさかさま 女、十一丁目の首しめ縄、川崎の泣坊主なきぼうず 、池田町の笑ひ猫、鶯塚の燃え唐臼からうす 、これら皆、年を重ねし狐狸きつねたぬきわざ ぞかし。世に恐ろしきは人間、化けて命を取れり。
心はおのづからの闇なれや。七月二十八日の夜 けて、軒端のきば を照らせし燈籠とうろう も影なく、今日けふ 明日あす ばかりと、名残なごり に声をからしぬる馬鹿ばか おどり も、ひとりびとりおの が家々に入りて、四辻よつつじ の犬さへ夢を見し時、かの樽屋に頼まれしいたづらかか面屋おもや 門口かどぐち のいまだ明け掛けてありしを見あは せ、戸ざしけはしく内にかけ込み、広敷ひろしき にふしまろび、 「やれやれ、すさまじや、水が呑みたい」 といふ声絶えて、かぎりの様に見えしが、されども息のかよふを頼みにして、呼び生けけるに、何の子細もなく正気になりぬ。
天満てんま に七つの化物がある。大鏡寺の前のからかさ 火、神明の手なし児、曽根崎そねざき のさかさま女、十一丁目の首しめなわ 、川崎の泣き坊主、池田町の笑いねこ鶯塚うぐいすづか の燃え唐臼からうす 。これらはみな、こう を経た狐や狸のしわざなのである。それよりも世の中で恐ろしいのは人間で、化けて他人の命を取るのである。
人の心は生まれつき、この闇夜やみよ のように暗いものだろうか。七月二十八日の夜も けて、軒端のきば を照らしていた盆燈籠ぼんとうろう火影ほかげ も消え、今日昨日ばかりと歌って、盆の名残なごり を惜しみ声をからしたばか踊りも、一人一人自分の家々に帰り、四つつじ の犬さえ夢を見ていたころ、例の樽屋に頼まれたいたずらがか は、おせんの主人の家の面屋おもや も門口がまだあけかけてあったのを見すまして、戸のあけたても荒々しくうち に駆け込み、広敷ひろしき をころげ回って、 「やれやれ、恐ろしや、水が飲みたい」 という声も絶えて、今は最期かと見えたが、それでもまだ息が通っているのを頼みに、大声で呼び生かしたところ、わけもなく正気に返った。
『現代訳 西鶴名作選』 訳者:東 明 雅 発行所:小 館 学 ヨ リ
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