〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part T-X』 〜 〜
なさけ を 入 れ し たる 物 語

2012/09/24 (月) 恋 に なき かへ (三)

この女、もとは夫婦池めうといけ のこさんとて、子おろしなりしが、この身過みすぎ 世に改められて、今はそのむごき事 めて、素麺そうめんうす など引きて、一日暮しの命のうちに、寺町の入相いりあひ の鐘も耳にうとく、浅ましいや しく、身に覚えての因果、なほ行末ゆくすゑ の心ながら、恐ろしき事をはな しけるに、それは一つも聞き入れずして、井守を焼きて恋のたよりになる事を深く問ふに、おのづと哀れさもまさ りて、 「人にはももらさまじ、その思ひの人はいかなる御方様ぞ」 といへば、樽屋、我を忘れて、こがるる人は忘れず、口のあるにまかせて、樽の底をたた きて語りしは、 「その君遠きにあらず、内方うちかた のお腰元おせんがおせんが、百度ももたび の文のかへ しもなき」 となみだ に語れば、かの女うなづきて、 「それは井守もいらず。我、堀川の橋にかけて、この恋手に入れて、 なく思ひを晴らさせん」 と、かりそめに請合うけあ ひければ、樽屋驚き、 「時分がらの世の中、金銀の入る事ならば、思ひながらなりがたし。あらば何か惜しかるべし。正月に木綿着物きるもの 、染めやうは好み次第、ぼん奈良なら ざらし中位ちゆうぐらゐ なるをひと つ、内証ないしよう はこんな事でらち の明くやうに」 と頼めば、 「それは欲にひかるる恋ぞかし。我が頼まるるは、その分にはあらず。思ひつかする仕かけに大事あり。この年月、数千人の肝煎きもい り、つひにわけの悪しきといふ事なし。菊の節句せつく より前に会はし申すべし」 といへば、樽屋、いとどかし燃ゆる胸に き付け、 「かか 様一代の茶の は、我等のつづけまゐらすべし」 と、人は長生きの知れぬ浮世うきよ に、恋路とて、大分だいぶん の事を請合ふはをかし。
この女は、元は夫婦みようと 池のこさん・・・ といって、堕胎こおろし を仕事にしていたが、この職業が取り締まられて、今ではそのむごい事をやめ、そうめんの粉をひいて、その日暮しをする身の上となったが、それでも寺町の入相いりあい の鐘の音も身にしみては聞かず、以前、あさましく卑しい業をした因果は身に覚えて、やはり行く末わが心ながらも恐ろしいというような事を話したのだが、樽屋はそれを一つも聞き入れずに、いもりを黒焼きにして恋の便りにする方法を根掘り葉掘り尋ねるので、自然と哀れさもまさって、 「だれ にも言うまい。お前さんの恋しい人はどんなお方じゃ」 と尋ねると、樽屋は我を忘れて、だが恋いこが がれる人の名は忘れず、すっかり心底を打ち明けて語るには、 「その人は遠い所にいるお人じゃない。このお宅のお腰元のおせん殿。そのおせん殿が百度も文をやったのに、一度も返事を下されぬのじゃ」 と、涙ながらに話すと、かの老婆はうなずいて、 「それだったらいもり・・・ もいらぬ。私が橋渡しをして、うまくこの恋まとめて、まもなく思いを叶えてあげよう」 と、あっさりと請け合ったので、樽屋たるや は驚いて、 「不景気な当世の事、金銀がいる事ならば、お世話願いたいはやまやまながら、ようお頼みできません。私にお金があれば何で惜しみましょう。正月に木綿の着物、染めようはお好みしだいに、盆に奈良ざらしちゆう ぐらいのを一つ、うちうちのお礼はこのくらいで事が済むように願います」 と頼むと、 「それは欲に引かれる恋というもの、私が頼まれるのはそんなわけのもではござらぬ。向うに思いつかせる仕掛けに秘伝がある。この年月、数千人の仲立ちをして、一つも都合よくまとまらぬことはござらぬ。九月の菊の節句より前に わせてあげよう」 と言う。樽屋は、燃え上がっている恋心をいっそうたきつけられ、 「婆様ばあさま 一代のお茶のたきぎ は、私の方からずっと仕送りいたしましょう」 と、人はどのぐらい長生きするか知れぬ世の中なのに、恋のためだというので、たいそうな事を請け合ったのはおかしいことであった。
『現代訳 西鶴名作選』 訳者:東 明 雅 発行所:小 館 学 ヨ リ
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