〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part T-W』 〜 〜
平 治 物 語 (上)

2012/08/26 (日) 待 賢 門 の 軍 の 事 (九)

三河守頼盛は、中御門なかのみかど を東へ引きけるを、鎌田が下部しもべ腹巻はらまき熊手くまで 持ちたるが、 「よげなるてき 」 と目を懸けて走り寄り、かぶと に熊手投げ懸けて、えいごゑ あげてぞ引きたりける。三河守ちつとも傾かず、あぶみ んばり、つい立ち上がり、左の手にてはくら前輪まへわ をかかへ、右の手にては抜丸ぬけまる ふ太刀を抜き、熊手の をぞ切りてける。熊手引きけるおとこ は、 けにまろ ぶ。三河守は、つと びにけり。熊手はかぶと まりけり。見物の上下、これを見て、 「あ、 りたり。いしう切りたり」 と、 めぬ者こそなかりけれ。

三河守頼盛は、中御門を東の方へ引き退いたのを、鎌田の下男が、腹巻姿で熊手を持っていたが、 「これは手柄を立てるにはよさそうま敵」 とばかり頼盛目がけて走り寄り、甲に熊手を投げ懸けて、かけ声かけながら引っぱった。しかし、二河守は少しも引きずられず、鐙ふんばり立ち上がって、左の手で鞍の前輪を抱え込み、右の手では抜丸という太刀を抜いて、熊手の柄を切った。熊手を引いていた男はあおむけにころんだ。三河守は素早く逃げ延びた。熊手は甲にひっついたままであった。見物の人は皆、 「あ、切ったぞ。みごとに切ったものよ」 と、ほめない者はいまかった。

三河守も、すで に討たれぬべく見えけるに、とほ ひて、戦ふ者ども誰々だれだれ八幡やはた三河左衛門みかはのさゑもん資綱すけつな小監物せうけんもつ 成重なりしげ 、その 監物太郎けんもつたらう 時重ときしげ兵藤内ひやうどうない 、その子藤内とうない 太郎、これはじ として廿余騎、しばらささ へて攻め戦ふ。兵藤内は、むま たせて、徒武者かちむしや になりてけり。その上、老武者らうむしや なれば、乱れ合ひたる戦ひかな はで、あるいは小家こいへ に立ち入りて見ければ、 「その国の住人じゆうにん だれ がし」 「 の国の住人それ がじ」 と名乗なの りを け、鎧にはくれなゐなが し、そで草摺くさずり には矢を けて、互ひに限りと戦ひける。太刀たち のかげはいかづち のごとく、ちが ふる馬の脚音あしおとなるかみ のごとし。大事の手負てお ひて、引き懸けられて行くもあり、また、そのにはまろ びて するもあり。むまはら させてひか へ、また、薄手うすで ひて、なほ返し合はせて戦ふもあり、 づるほど にぞもみ合ひける。内藤太郎家継いへつぐ 、年三十七、その振舞ふるまひ すぐ れたり。究竟くつきやうてき 七、八騎討ち取りて、よきてき と引き組みて、差し違へてぞ せにける。父の藤内とうない 、家のうち よりこれを見て、 「あはれ、若き時ならば、走り で、共に戦ひなん」 とおも へども、 なれば、かな はず、ちから およ ばで、泣く泣く宿所しゆくしよ へぞ帰りける。内藤太郎 にの後、三河守の勢もただ引きにこそ引きたりけれ。
三河守もあやうく討たれそうになったが、通りかかって戦った面々は以下の通り。八幡、三河左衛門資綱、小監物成重、その子監物太郎時重、兵藤内、その子藤内太郎、これらを始として廿余騎、しばらくは持ちこたえて攻め戦った。兵藤内は馬を討たれて、馬なしの徒歩武者になってしまった。そのうえ老武者だったので、乱れ合った戦いは出来かねて、家に立ち入って見ていると、 「その国の住人は誰それ」 、 「彼の国の住人なにがし」 と名乗りかけ、鎧には紅の血が流れつき、袖・草摺には矢が折れたままつきささり、互いに力の限り戦った。太刀の光は電のようで、あたりを馳せ違う馬の足音は雷のようであった。重傷を負ったまま引っ懸けられて行く者もいれば、またその合戦の場ですべって死ぬ者もいた。馬の腹を射られてそのままとどまっている者、また軽傷を負ったものの反撃する者もいるなど、すさまじいもみ合いであった。藤内太郎家継は年三十七、その戦いぶりはすぐれたものであった。手強い敵七、八騎を討ち取って、あげくはよき敵とばかり組み合って差し違えて討ち死にした。父の藤内は、家の中からこのありさまを見て、 「ああ、若い時だったら、走り出て共に戦ったものを」 と思ったが、なにせ年老い、それもかなわず、やむなく、泣く泣く宿所へ帰った。藤内太郎が討ち死にした後、三河守も軍勢もいっせいに引きあげた。
『将門記・陸奥話記・保元物語・平治物語』 発行所:小学館  ヨ リ
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